田中角栄の何が多くの人々を惹きつけたのか 最もよく知る男が語る「限りなき人間的魅力」

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「うまいなあ。うまいだろう」と家来に賛同を強要した。私は函館出身ですから塩鮭なんか珍しくも何でもない。だけど、腹が減っていたし、親方のスピードに追いつくため、二、三度、大きくうなずいて、黙々と食べました。

「選挙になって、料理屋に上がってふんぞり返って、昼から刺身だ、天ぷらだ、と言っている奴は必ず落ちる。選挙のときは握り飯に限る。昔から戦(いくさ)に握り飯は付きものだ」

食後の番茶を飲んで元気いっぱいな親方が、上機嫌で私に言ったのを覚えています。

自分を袋叩きにするマスコミをもかばう優しさ

それと、田中と言えばやっぱりロッキード事件。6年9カ月、196回。皇居のお堀端にある東京地方裁判所に通いました。角栄さんは律儀な人で、熱が40度も超す風邪を引いた時も休まない。私は「弁護士に連絡して休みましょう」と繰り返し勧めたけど、「まあ、いいじゃないか、お上(かみ)の決めたことだ、行こう」。昔の小学校なら皆勤賞を貰ったところです。

事件が始まったあと、東京・目白台の田中邸は、カメラの脚立が林立し、報道陣2、300人に取り囲まれた。スポークスマンの私は精いっぱい、彼らの質問に答えたつもりですが、連中は私の話など上の空で、思い入れと偏見、独断にあふれた記事を洪水のように流した。私も頭にきて、いつも怒鳴りつけていた。そしたら、オヤジさんが私に言いましたよ。

「怒鳴るな。連中も俺のところに来たくて来るんじゃない。仕事で来るんだ。カメラマンは俺の写真、面白い顔をしたのをぱんと撮らなきゃ、社へ帰ってデスクに怒られるぞ。新聞記者だって、お前から無愛想に扱われ、つっけんどんけんやられて、俺が目白の奥で何をしゃべっているか、それも聞くことができないで記事に書けなけりゃあ、社に戻ってぶっ飛ばされるぞ。彼らも商売なんだ。少しは愛想よくしてやれ」

私はあの人の顔を見ましたよ。これだけすりこ木にかけられて、何でこの連中にそれだけサービスすることがある。だけど、それが角栄さんという人であったと思います。

角栄の死と“英雄の時代”の終焉

戦後の日本政治に一時期を画した田中政治については、平成5(1993)年に大将が亡くなって、論評が洪水のように流れました。功績四分、罪六分、これが一般的な受けとめ方だと思います。それはそれでいい。政治家の評価というのは、死後30年から40年、50年もたって、後の世の歴史家が過不足のない、きちんとした、客観的な評価を下すものでしょう。それでいい。

ただ私は今、改めて思っている。角栄さんが死んで戦後日本は終わった。上り列車の英雄の時代に幕が下りた。行儀は悪いけど、ここいちばんという時、頼りになる隣のオジさんがいなくなりました。全軍の先頭に立って、さあ、前進しよう、それでみんながワクワクして、一緒に動き出す、そういう時代は、田中が去って終わったと思います。

悪党と言えば悪党、それがいなくなりました。これからは真面目で善意だけど、気が小さくて度胸なし、小理屈は達者でも決断、実行、情熱の乏しい人たちがあふれるだろう、角さんのような人が再び出てくるのは難しい世の中になった。そう思います。

東洋経済新報社 出版局
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