10代の頃、岩手県の土沢(現在の花巻市)でこの『水彩画之栞』を読み、画家を志したのが萬鉄五郎だ。子供の頃は水墨画を学び、16歳で水彩画を始めた。作品を持って大下藤次郎を訪ねたこともあるという。
上京して東京美術学校に入ってからは油彩画に取り組み、卒業制作の『裸体美人』でデビューした。前衛画家として油彩で活躍し、晩年にまた水彩を描くようになる。これも晩年の作品だ。
「中国の文人画、南画を勉強したことで、風景を自由に解釈した風景画が生まれました。実際の風景に感動して、そこから始まっているけれど、ただ写し取ることはやめて、気分の高揚を反映させたり、構図や視点を自由に変えたりしている。大下藤次郎とは全然違うでしょう?」。
大正時代の初めには、水彩画で画壇にデビューする画家もいた。たとえば村山槐多は18歳で『庭園の少女』を描き、第1回二科展に入選している。「少女と植物というシンプルな組み合わせながら、日常生活を通り越したような、幻想的な雰囲気を醸し出している。槐多が愛した青、赤、緑を効果的に使って絵を成り立たせている。彼の才能がわかります」。
しかし、水彩画は次第に美術界の表舞台から姿を消していく。その理由を土方さんはこう語る。ひとつは保存性の高さから、ヨーロッパで油彩画が珍重される風潮があったこと。また、日本でも個性や自我が尊ばれるようになり、より強い表現手段が求められるようになったこと。もうひとつは、フランスに学び、官立系の美術学校の大御所となった黒田清輝が水彩画を軽んじたこと。
こうして水彩画は、画家が楽しみのために描くもの、という位置づけに変わっていった。
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