日本人が水彩画を初めてまとまった形で見たのは幕末から明治の初め、イギリスから来日したチャールズ・ワーグマンが日本の暮らしや事件を描いたものだった。
ワーグマンは今でいう報道カメラマン。「人物の表情を豊かに描いている。ワーグマンの技量がわかる作品」と平塚市美術館の土方明司さんは言う。
「ワーグマンは日本のニュースを絵にしてロンドンに送る傍ら、高橋由一ら日本の画家に水彩画を教えました。その後、官立の美術学校のお雇い外国人教師、フォンタネージが水彩画の技法を伝えました。2人の外国人は技法だけではなく、ものの見方も伝えたのです」。
それまでの日本の風景画は、中国の影響で発達した山水画と、和歌に詠まれた名所を描いた日本画が主流だった。ところがワーグマンとフォンタネージは、自分の気に入った風景をそのまま描いた。当時の日本人にはそれが新鮮に映った。
しかもチューブ入りの絵具は持ち歩けるから、屋外で描くことができる。「それで明治30年代に水彩画が爆発的に流行しました。推進役となったのが、大下藤次郎でした」。
大下は写実的な風景画を得意とした。「穂高岳、十和田湖、尾瀬沼など、地元の猟師しか知らないような場所に入っていって絵を描いた。それが雑誌で紹介されると、みんながそこを目指すようになり、明治の新たな名所が生まれました」。
大下藤次郎は画家であると同時に、水彩画の手引書である『水彩画之栞』を出版し、地方の若者たちに大きな影響を与えた。15刷のベストセラーになったという。
「もともと日本には水墨画、書、日本画があり、紙に水性の絵具で描く伝統があった。日本画はニカワ、水彩画はアラビアゴムを使うという違いはありますが、あとは顔料と紙。日本人の肌になじむ画材だったのだと思います」。
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