なぜ、ありきたりな商品が量産されるのか? ディレクター的ものづくりの限界

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プロデューサーとディレクターの役割の違い

これまでの話を、私の研究テーマである経営学の一分野である製品開発論の用語で説明してみます。ドラマのプロデューサーが行うのは、テレビドラマという商品の「趣向」を創案すること、いわばコンセプト(概念)設計です。そのドラマが社会のどのような層の視聴者に歓迎され、誰に面白がられ、あるいは涙を誘うかという構想をする、という意味では、商品の社会へのはまり方、商品の外的(対社会)整合性の調整でもあります。

さらにプロデューサーの仕事としては、他の部署と連携してそのドラマの趣向から、どのような視聴者にアピールするかということを踏まえて、ドラマのスポンサーにどのような企業がふさわしいか、どのような宣伝を行うか、という調整も含まれます。これもやはり、商品を社会のどこに価値として位置するかを決定するという意味で、外的整合性の調整です。

一方、ディレクターの仕事というのは、プロデューサーが決定したコンセプトにのっとって、さまざまな技能を持ったスタッフたちを動かして商品を構成する内的(要素間)整合性を調整する仕事といえます。すでに社会のどこにアピールすべき商品かが決定されているからこそ、具体的な商品の細部が決定できるということでもあります。

つまり、新しいタイプの商品を開発する際には、まず、その商品が社会のどこにはまるかという、商品とその外の社会との関係性の調整とデザインが行われます。商品が何度かのバージョンアップを経て成熟してくると、コンセプトが固まり、どのような工数でコストを投下すればどういう成果が出るかも、ある程度は見込めるようになります。

社会で今、開発に取り組まれている事例としては、こうしてある程度定番と化した商品の開発の事例が、圧倒的に多いでしょう。だからといって、こちらがパターンに従っていればよいということではなく、より優れた商品をつくるためには、より内的整合の精度を上げて、商品を構成する要素間の結合を「絶妙」な水準にまで高める、微妙な擦り合わせの世界に入っていきます。

映画制作の事例を見ると、何作もシリーズ化されるような名作映画の演出は、もう0.1秒単位のタイミングで制御されて、観客の感興を最大限に引き出すようになっています。柴又の帝釈天参道にある「とらや」の茶の間で倍賞千恵子が「お兄ちゃん、今頃どうしているのかしら」とうわさしているちょうどそのときに渥美清が帰ってくるとか、それで登場人物たちが揉めているちょうどそのときに、これまた太宰久雄(裏の印刷工場のタコ社長)が肩にかけたタオルで汗を拭きながら、「寅さん、また振られたんだって?」と闖入してくるとか…。

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