LGBTの「アウティング」は暴力的な飛び道具だ 恋の告白を「命がけ」にしない社会をどう作る

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なかでも、アウティングはときに人生の航路を大きく変え、人の社会生命を絶つほどの威力をもち、最大の裏切り行為にも、暴力的な飛び道具にもなり得るものだ。カミングアウトしようと思うきっかけはさまざまだが、アウティングされそうになって、自らがカミングアウトする羽目になった、という場合も珍しくない。

しかし悲しいかな、アウティングはLGBTにとってあまりに日常茶飯事で、これまで裁判になることはまれだった。また、LGBTの若者に対するいじめや自死が起きても、遺族は悩みを公表したがらず、亡くなった人が実際に恋愛対象や性別について悩んでいたか否かはウヤムヤにされるのが常だった。

今回の提訴にあたって、ご家族が、身内に同性愛者がいることを隠すべきことと見なさず、息子さんの遺志を引き継ぐ形で提訴に踏み切ったのは、家族の受容的な姿勢を物語るものだ。彼が生きていればさぞかし心強い味方を得ただろうに、と改めて無念に思うとともに、時代が確実に変化しているのを感じる。

カミングアウトにまつわる「ダブルバインド」

LGBTの生きづらさを知らない読者の多くはここで、「同性愛者がアウティングされたからって、死ぬほどのことなのだろうか」という疑問をもつようだ。たしかに今回は、アウティングが自死に直結したわけではないが、強いパニック発作を引き起こすほどのダメージを本人に与えたことは確かで、それが後の転落につながったと推測される。

では、なぜパニック発作なのか? LGBTが学校や職場で直面する困難の特徴は「カミングアウトをしてもしなくても息苦しい」いわゆる“ダブルバインド”(二重拘束)である。

世の中の仕組みを考えるとき、公的領域と私的領域に二分され、公私の区別をつけるのが常であるが、相談支援や福祉の分野では、個人的領域と公的領域の間にもうひとつ「生活圏」というメゾ領域を設定して問題解決にあたる。

この「生活圏」をつかさどっているのは、家庭、近隣、学校、職場、行政、医療、警察など、日頃かかわりの深い「顔の見える集団」であり、寄せられる悩みの多くは「生活圏」の社会規範と個人との軋轢である。中でも、性的指向の悩みは、心の悩みというよりは、性別に関する固定観念や男女の異性愛のみを想定した「生活圏」の社会規範が原因であることから、カミングアウトも、個人対個人(ミクロ)、個人対顔の見える集団(メゾ)、不特定多数(マクロ)の三領域に分けると整理しやすい。

たとえば、カミングアウトしないと「言ってもらわないと分からない、周りを気にせず早くすれば?」と急かす声さえ聞こえてくる。しかしいざカミングアウトすると、相手が受けとめきれないことも多く、「急に言われても無理だろ」ということになる。どっちにしても異性愛者の基準でしかことは運ばないのだ。しかし、問題の核心はLGBT本人にあるわけではなく、職場環境や学習環境にはびこる集団的な同性愛嫌悪や、公にすることを禁じた世界に対する根拠なき恐れにあり、到底一個人で解決できる問題ではないのだ。

そこでまずは、1対1の恋心の告白ではなく、「顔のみえる集団」へのカミングアウトを考えてみよう。ここに「恋愛対象は同性」という性的指向の人がいたとする。「同性が好き」という心の動きをことさら口に出さなければ、その人がLGBTであるかどうかは誰にもわからない。黙っていれば周囲に異性愛者とみなされる。

しかし大学や職場の同僚との世間話で「ホモネタ」が登場することがあり、そんなときは、同性愛者を嘲笑したり、さげすんだりする言動にさらされることになる。

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