LGBTの「アウティング」は暴力的な飛び道具だ 恋の告白を「命がけ」にしない社会をどう作る
何も言い返せないのは不本意なので、機を見てカミングアウトしようかな、と考えるのが自然な流れだ。しかしここで「ちょっと待て」と制止する心の声が聞こえる。いったんカミングアウトをすると撤回は至難の業。生活のさまざまな局面で偏見や嫌悪に満ちた対応をされても受け流す覚悟が必要だ。本当はショックを受けていても、平気な振りをしなければいけない。まさに進退窮まる状況での、絶え間ない心理的緊張が、パニック発作を誘発しても無理はない。
これが1対1での恋心の告白となると、個人的な想いと同性愛者としてのカミングアウトをいっぺんにすることになり、状況はさらに複雑だ。友人関係にある誰かに告白してうまく行かなければ、関係がぎくしゃくして友情の継続さえ怪しくなることが多い。恋愛が成就するかはさておき、友人に「言うべきか、言わざるべきか」は大きな賭けなのだ。
個人対個人の世界を司るのは「好き嫌い」の感覚であり、誰と友達になるか、誰と恋人同士になるかは個人の選択に任されている。要するに、ふられたらあきらめが肝心。当初その辺りはきっちりしていたようだが、その後、メゾ領域での顔合わせが増えるにつれ、共存が難しくなり問題がこじれることは多々ある。
大学の授業や同級生との交友など、固定メンバーでの顔合わせはどちらにとっても相当のストレスだったはずだ。これが男女ならそれぞれにサポーターがつく場面だが、男同士で一方がゲイという状況は「11対1でアウェイの試合を戦う」ようなもの。その孤立感を決定的にしたのがアウティングだった。
いうまでもなく、複数の人が一度に情報共有するSNS上では、どんなアウティングもNGである。性的指向のみならず、住所、年齢、性別などの個人情報を自由に開示できるのは本人のみであり、他者が本人の同意なく開示できるたぐいのものではない。また、他者による開示が不適切であることをライン仲間で指摘し合えていたら、アウティングの衝撃はいくらか和らいでいたのではないかと思う。
告白されたほうまで孤立しないために
加えて、相談現場においては、告白されたほうがどれだけ負担に感じていたかも考慮すべきことのひとつである。本人が他の知り合いにまったくカミングアウトしていない状態で、家族や友人が図らずも知ってしまうと、今度はそこが「拡大クローゼット」となる(クローゼットとは、隠しごとをする場所の比喩。性的指向を誰にも言えずにしまい込んだ状態を指す)。すると、カミングアウトされたほうまで孤立する、というのはよくあるパターンで、生活圏におけるLGBTへの偏見の深さを物語る。
この時点で学校側が双方の相談にのっていたかどうか定かではないが、告白を受けた側の複雑な思いを受けとめながら、アウティングに関してはきちんとした謝罪をださせ、双方の不安を少しでも軽減できる立場にいたのは、おそらく学校側だけだった。一方で、カミングアウトが不調に終わったことに関する後悔も含めて、本人の気持ちをがっちり受けとめ、ピア(仲間)目線で相談できるサークルが学内になかったこと、学内にジェンダー・セクシュアリティに取り組む部門があったのに、相談者やご家族をそこにつなげられなかったことも、災いしたと思う。
個人では到底解消できない社会的偏見を前に、それでもなんとか自己解決しようとするLGBTの若者は多い。彼ら、彼女らが安心して行ける場所をひとつでも多く作ることが、こうした死を無駄にしないことにつながると信じている。故人のご冥福を心からお祈りし、LGBTのみならず、その家族や友人が安心して話ができるよう、多くの皆さまにご協力をお願いしたい。
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