中国が1980年ころから改革開放政策を進めるようになった結果、香港の政治的な特殊性は薄くなっている。一方で香港の経済規模は中国の成長に合わせて大きく成長した。香港の人口は、1980年の約500万人から2015年には約732万人に膨張している。
一方、政治的には中国への復帰後問題が出てきた。中国とイギリスの間で行われた香港返還交渉においてイギリスがこだわったのは、香港住民の基本的権利を守り、またその暮らしを低下させないことであった。
返還が実現しても香港を特別扱いすることに中国は当初乗り気でなかったが、ついにはその必要性を理解するに至り、返還後50年間は現状維持を約束した。返還後の香港と中国の関係を定めた「香港行政区基本法」は、実質的には香港の憲法だが、「香港特別行政区では、社会主義制度と政策を実施せず、現行の資本主義制度と生活方式を50年間維持する」と明記した(第5条)。
また、香港は「高度の自治」を認められ、行政管理権、立法権、独立した司法権なども保証された(第2条)。つまり、50年間不変という原則と具体的な権利保障により返還後も中国の関与が制限されたのだ。
議会から植民地時代の議員を排除
しかし、これは建前であり、実際にはすぐに違ってきた。香港には植民地時代に設置された議会があったが、返還によりこの議会は廃止され、代わって中国は「臨時立法会」を設置した。植民地時代の議員はすべて排除され、中国が選んだ者が議員に任命された。すでに一定程度実現していた民主政治は後退させられたのだ。
この時は返還後の過渡期であり、香港住民も臨時の措置として受け入れざるを得なかったので大事に至らずに済んだ。
重要なのは、2007年から2008年の間に直接選挙で立法会の議員を選出するという香港基本法付属文書が定めていたことがその通りに実現することであった。この間、香港で鳥インフルエンザなど問題が起こるたびに中国は香港の民主化を制限するようになり、2004年には普通直接選挙への移行を否定してしまった。
さらに、香港特別行政区の行政長官も2017年から普通選挙で選ぶことになっていたが、2014年、中国は中国政府を認めない人物は候補者になれないという制限を一方的にかけた。中国側の相次ぐ約束違反に香港住民は怒りを爆発。学生たちは激しい抗議デモを行い、「セントラル」地区を占拠するいわゆる「雨傘革命」を展開した。
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