「稀に見るケチ」徳川家康が天下を取れたワケ 地味すぎる出世の過程に秘密があった!

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信長や秀吉は、「天下を統一する!」という強い意志を持ち、周りにも公言し、そのための計画を立て、1つずつ実行に移してきた。

家康は違う。日頃は「私は野心も何もありません」という顔をして、周辺勢力に気を遣い、おとなしく暮らしている。近くに巨大な勢力がある場合は、その勢力に反抗せずに辛抱強く付き従った。自分からは、決して巨大な勢力に立ち向かっていこうとはしない。

しかし、何か事が起きたときには、ドサクサに紛れて、何食わぬ顔でおいしいところを持っていくのである。特に、巨大勢力が弱まったときには、容赦せずに版図を切り取った。

こうした行動を端的に表現すれば、「省エネ戦略」である。

敵が強いときにこれを破ろうとすると、大きな出費を強いられる。味方を増やしたり、家臣に大きな働きをさせるためには、それなりの対価が必要になってくる。

信長や秀吉は、この大きな対価を支払っていた。自分の勢力を拡大するために、敵方から寝返った武将たちの所領を安堵したり、有能な武将を引き抜くために、大きな褒賞を与えたりもしてきた。

もちろん、家康も同様のことをしてはいるが、その規模は非常に小さい。
家康は無理に版図を拡大せず、敵の大将が倒れたりして、権力の空白が生じたときに一気呵成に攻めたてたのだ。敵が弱っているときにこれを叩けば、あまり費用を掛けずに領土を拡張できる。味方の損害も少ない。いいことづくめである。

能動的には動かないのに、勝った家康

この、いわば「火事場泥棒戦法」の唯一の欠点は、自分から能動的には動けないということである。相手がいつ弱るのか、いつ失敗するのかは、わからない。いつ来るかわからない幸運を辛抱強く待たなくてはならないのだ。

だが、家康は若いころから、この“幸運”に恵まれていた。その最初の幸運は、桶狭間の戦い(織田信長対今川義元)である。

桶狭間の戦いの当時、家康は今川方の人質として今川軍に従軍していた。そして、敵勢力内での兵糧の搬入という危険な業務に従事させられていた。そんな中での、今川義元の討死である。

今川家が大混乱に陥っている中で、家康は人質状態から抜け出し、今川から独立。そして、今川の影響力が弱まった三河国を平定し、今川を討った信長と同盟を結んだのである。弱っている今川を踏みつけにして飛躍したのである。

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