「稀に見るケチ」徳川家康が天下を取れたワケ

地味すぎる出世の過程に秘密があった!

二度目の幸運は、「本能寺の変」である。本能寺の変の直前、家康は信長に招かれ、少人数の家臣のみで堺見物をしていた。そんな中で信長が光秀の襲撃を受けて自刃する。

本能寺の変の後、織田領では大きな混乱が起きる。とくに甲斐、信濃などの旧武田領は、わずか3カ月前に武田家の滅亡によって領有されたばかりである。それまで信長と協調の姿勢を取っていた北条氏が大軍で侵攻の構えを見せ、織田軍現地司令官の滝川一益などは命からがら近畿に逃げ延びた。

それに乗じる形で、家康も甲斐、信濃に侵攻するのである。家康は織田領だった甲斐をすぐに併合しようとし、河尻秀隆に甲斐を明け渡すように使者を送った。河尻秀隆はこれに激怒し、使者だった本多信俊を殺すが、河尻も蜂起した武田の遺臣に殺害された。

家康は“律義者”だったという評価をされることがあるが、このあたりを見ると、決してそんなことはなかったということがわかるはずだ。同盟者(というより主君に近い存在)である信長が死んだ途端に、その領地に侵攻しているのだ。

結果的に、家康は5カ国の領主となった。本能寺の変の後、飛躍したのは秀吉ばかりではなかった。派手さはないのだが、家康もこのときに大大名としての基盤を築いていたのである。

このように家康は、「果敢に版図を切り取っていく」のではなかった。「誰かが弱るのをじっと待っていれば、必ずその時が訪れる」という成功体験を、十二分に生かしていたのである。

内政面でも半端ないケチだった

家康のケチケチ戦略は、戦争面、外交面だけではない。内政面でも同様だった。

関ヶ原の戦いという“効率的な戦争”によって、徳川家には一族全体で800万石という広大な版図が転がり込んできた。家康は、この広大な版図をできるだけ削らずに、直轄領として残したのである。

これを一言で言えば「吝嗇家」ということだろう。

そもそも家康は、家臣に与えてきた所領が驚くほど少ない。「関ヶ原の戦い」までは、家康の家臣の中で10万石以上を与えられた家臣はたった3人だった。その3人とは、井伊直正、榊原康政、本多忠勝である。家康は「懐刀」と呼ばれた本多正信にも、関ヶ原以前には1万石しか与えていなかった(関ヶ原後に2万2000石になる)。

関ヶ原の後でさえ、徳川の家臣たちは決して多くを与えられなかった。家康は直轄領だけで400万石の大版図を手にしたが、譜代大名の筆頭である井伊家に与えられた所領はわずか30万石である。

単純な比較は難しいが、元の同僚だった前田利家に100万石近くを与え、子飼いの家臣たち、つまり加藤清正、福島正則、石田三成に次々に20万石前後の領地を与えた豊臣秀吉とは「真逆」の施策ともいえる。

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