広告ができるのは「たった2つのこと」だけだ 感情に訴える以外は効かない
そうして電通がインターネットに関与することが世の中に発表されると、一発当てようと考えた山師のような人たちが、様々な企画や事業計画を持って大挙して電通に押し寄せてきました。そういう人たちの話を聞く仕事も僕の仕事でした。
電通社員の多くは、最初はインターネットのことをバカにしていました。当時はケーブルテレビや衛星放送のように「ニューメディア」と呼ばれるものがたくさんあって、インターネットも一括りにされていたんです。だから過去のニューメディアの失敗になぞらえて、インターネットも「結局は地上波に勝てない、新聞に勝てない。君のやっているインターネットは早晩失敗するんだ」と、インターネットに夢中になる僕を諭してくれる人もいました(笑)。
──ビジネス開発は何人でやっていたんですか?
最初は部長を入れて4人です。子ども銀行みたいなものだったなとも思います(笑)。でも、その子ども銀行に、アイディアを持った人々が押し寄せてきた。それが面白かったんですよね。95年ごろから99年に辞めるまでそこにいました。
当時の一番のモチベーションは嫉妬と羨望
──クリエイティブまで自分でやろうと思ったのはいつですか?
広告代理店では、クリエイティブは特別扱いされています。僕もそっち側に行きたいな、という単純な思いがありました(笑)。これは、電通を出て、ベンチャーに転職したあと、再び戻ってきてから、の話です。
ある時、書店でたまたま手にした『広告批評』に、僕よりはるかに年次が下の権八君というクリエイティブのインタビュー記事を読んだんです。まるでタレントのように扱われていて。佐々木宏さん(元電通のクリエイティブディレクター、1954年生まれ)という大御所を、「ヒロシ」って呼び捨てにしていて。「なんだこのカッコよさは!」って思った(笑)。この権八君への嫉妬と羨望が、当時の一番のモチベーションになりました。
──もちろん障壁はあったんですよね。
ありました。当時の電通は10年を超えるとクリエイティブ職に移るための試験さえ受けさせてもらえません。僕は10年目を超えていたのでチャンスすら無い。そこで上司だった杉山恒太郎さん(元電通役員のクリエイティブディレクター、1948年生まれ)に直談判したら、「原野君は会社を作るのが得意なんだから、クリエイティブの会社を作って出向したら、クリエイティブ職になれるよ」って言われて(笑)。
冗談だったのかもしれませんが、僕は本気にしてしまいました。もともと電通の中で2つほど子会社を設立した経験がありましたので、どうやって起案してどうやって通すかも熟知していました。その後いくつか幸運が重なって、実現してしまった。それが「ドリル」という会社です。そこに出向して、まったく未経験だったんですけれど、いきなり「クリエイティブディレクター」になりました(笑)。
──そこでは最初からクリエイティブディレクターを名乗ったのですか?
最初からそう名乗ると、さすがに軋轢が生じると思いまして、はじめは「プランニングディレクター」という肩書きにしました。クリエイティブじゃないですよ、まだ見習い中ですよ、と。
今思うと、最初は全部ハッタリでしたね(笑)。「仮編」とか「本編」といった用語も知らないし、クライアントに何か言われても知っているふりをして、横に座っているコピーライターに「だよね」って相づちを打ったり。
──その会社はどのような役割を負っていたのでしょうか?
会社設立前の僕は、電通の中でもメディア部門に所属していたのですが、これからどんどん時代が変わっていく中で、メディアとクリエイティブの境目がない新しいタイプのコミュニケーションの考え方が生まれてくる、だからこそメディア部門がクリエイティブの新会社を設立する意味があるんだ、と、このようなストーリーで起案しました。
クリエイティブ部門の方々は「お手並み拝見」という感じで見ていたと思います。でも、協力もいただけて、優秀なコピーライターやアートディレクターを新会社に送ってくれたりもしました。