広告ができるのは「たった2つのこと」だけだ 感情に訴える以外は効かない
──電通では、原野さんがやりたいことはできないんですか?
もともと現在やっているようなことは、電通時代に始めたんです。若気の至りで一度は電通を退社したものの、その後1年と少しで電通に復職しました。しばらくメディアの仕事をした後、先ほどお話ししたような考えに至り、電通に「非伝統的なクリエイティブをつくる会社」というコンセプトを提示して、それが「ドリル」という電通とアサツーディ・ケイが合弁で設立した会社として結実しました。
12年前の話になります。当時、周りの人たちの目は冷たかった(笑)。「原野くんはクリエイティブの経験もないし、邪道でしか生きていけないから、そっちで頑張っているんだね」というくらいの評価だったんですよ(笑)。でも、それが結果的にうまくいったんです。そして今では電通や博報堂も、ドリルが提示した「非伝統的クリエイティブ」を追求する子会社や組織をつくっています。
──電通時代から、広告が万能ではないこと、広告では解決できない問題なのに広告に囚われるというジレンマはあったのですか?
ありました。僕は1994年の入社なのですが、インターネットって94年とか、95年ぐらいには、早い人は使い始めていました。そういう黎明期からインターネットを見てきたので、世の中が変わっていっているのに、仕事のやり方が変わっていかないことに、モヤモヤした気持ちがありました。
──94年入社ということは、ひとり1台のパソコンがない時代ですよね?
僕は、趣味で音楽制作をしていたのでMacを持っていました。そして、当時住んでいた電通・調布寮の隣部屋にギル・ケイというDJ(もちろん電通社員)が住んでいて、彼が、僕に、インターネットを教えてくれたんです。その頃のインターネットって、クラブ・カルチャー的な側面もあったんです。結果、僕は相当早くにインターネットに出会うことができた。会社では、個人用のパソコンはなくて、業務会計の端末が部署にひとつあるくらいの感じでした。
これが何かを変えるかもしれないという直観
──原野さんのそういう仕事のスタイルは、どこが原点なのですか?
最初に所属した部署は海外業務局という部署で、海外のメディアバイイングをしていました。とてもつまらない仕事でした。ある日掲載誌をチェックしていたときに「米国でインターネット上に広告ビジネスが出現した」というニュースを偶然目にしたのです。僕は、これが何かを変えるかもしれないという直観を感じて、それらの会社にメールを送り、資料を集めました。その資料は、電通社内の「インターネット・マニア/マフィア」の間でちょっと有名になっていました。
そこにソフトバンクの孫正義社長が電通を訪問してきたんです。米・Yahoo!と合弁で日本にヤフーを設立して、「Yahoo JAPAN!」を始めることになったから、と。
ネットメディアのビジネスモデルは、広告ですよね。孫社長は広告ビジネスを手がけるからには電通と組まないとうまくいかない、と思って訪問してきたんです。
そこで電通とソフトバンクでインターネット広告の会社を設立しよう、ということになりました。その仕事をいきなり僕が任されたんです。当時の電通にはネットビジネスをわかる人なんてそもそもいないし、その中では先ほどの資料を作成していた僕が「電通で一番詳しい人」だった(笑)。
入社2年目の話です。事業計画書の作り方なんて知りませんから、書店で「事業計画の書き方」みたいな本を読んで、その通りに書いて孫社長に持っていきました。電通から送られてきた担当者が入社2年目だったのはおそらく予想外だったと思いますが、孫さんは文句ひとつ言わずに色々と教えてくれました。
──今では考えられないエピソードですね(笑)。
そうなんですよ。「原野さん、事業計画というのはこうやって作るんですよ」って、その場でホワイトボードに全部書いてくれました。僕はそれをノートに写して、家に帰ってMacで打って、それを上司に提出していたんです(笑)。
そうやって設立したのが、サイバー・コミュニケーションズ(cci)です。96年のことです。