昨季までホンダ所属の現役選手だった藤原は、昨夏に行われた北京世界選手権の男子マラソンにも出場している。箱根から世界へ飛び出した藤原にとって、母校の実状には、大きな違和感があった。
「4月に入ってきたときの雰囲気は、同好会並みでした。締まりがなかったですね。『やっています』という内容のレベルが低いんです。これは大変だぞ、と感じましたけど、案の定大変でした……」
藤原の眼には、さまざまな面で「緩さ」が映ったという。22時までの門限を過ぎてもいい日が月に4回もあったため、それを月1回に変更。藤原の学生時代には認められていなかった原付バイクの使用も3・4年生はOKになっていたが、それも禁止した。
「私はホンダにいたので、乗り物の便利さとリスクはしっかり学んできたつもりです。競技を続けている間は、二輪車のリスクは低くありません。本当にちょっとずつなんですけど、チームはよくない方向に進んでしまったと思いますね。人間は楽な方に流れます。長い年月をかけて、結果が悪くても、徐々に許されてしまうような雰囲気になってしまった。それが、今の中央大の姿じゃないでしょうか」
全日本大学駅伝の予選会で惨敗
藤原氏が駅伝監督に就任した中央大は、5月の関東インカレでエントリーした選手が想定内の走りを披露。藤原は「80点くらい」という評価をした。しかし、6月の全日本大学駅伝の関東学連選考会は、エースの町澤大雅が体調を崩してメンバーから外れたこともあり、“過去最低順位”を記録する。
8名のメンバーの中で1年生を3名起用した中央大は、20チーム中で17位。3組終了時まで予選通過ラインにつけていた神奈川大と創価大が最終4組で棄権する波乱があったため、実質「19位」という結果だった。前年のワースト18位という順位をさらに下回った。
「町澤の欠場を発奮材料にして戦ってほしかったんですけど、下級生には負担になってしまったかなと感じています。そもそも1万mの経験が少ない選手に無理をさせてしまうような形になり、私のマネジメント不足でした。それが予想していたより悪い方に出てしまいましたね」
レース後、危機感を募らせた指揮官は、各学年でミーティングを行い、意見を出し合うようにしたという。しかし、組織が急激に変わるような具体的な「改革案」は出てこなかった。
「私が学生時代には考えられないような成績です。でも、それが当たり前になりつつある。レースのあった日は落ち込んでも、次の日になったら忘れてしまうような感じがしました。当時の私たちがこの結果だったら、なぜダメだったのかをすごく考えると思うんですけど、選手たちに『今日どうだった?』と聞いても、『わからない』と答えるんです」
全日本大学駅伝の予選会には、前回大会でシード権を獲得した大学(6校)は出場していないため、現状は関東の大学で“25番目”の順位となる。箱根駅伝の超名門にとって大ピンチだ。この結果を踏まえて、藤原は大きく舵を切ることになる。とはいえ、いきなり「1年生主将」を選んだわけではなかった。
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