死もまた生成発展のひとつの姿ではないのか。新緑の葉も秋が来るとともに枯れ葉になって、散っていく。しかし、次の春には木々はまた芽を吹いて茂っていく。人間も個々の姿をみれば、死んでこの世から去って行く。しかし人間全体からすれば、それもまた生成発展のひとつの姿ということになる。
死を衰退とみるのも誰が考えたかといえば、人間自身である。宇宙が死を衰退だと言っているのでもなければ、自然がこれは衰退だと言ったのでもない。
神様がといっても、直接われわれに言ったわけではない。いわば人間が勝手にそう解釈して言っているにすぎない。
どうみるかは人間の自由ということになれば、宇宙万物は生成発展している、そういう見方をしたらいい。そのような見方のほうが人間の幸せにつながる。
そして、人間が誕生してから今日までのことを考えてみても、生成発展とみたほうが理にかなっている。人間の最初の姿から考えれば、徐々にではあるけれど、そこに進歩の過程をみることができる。原始の昔に比べれば、明らかに人間は発展してきている。
もし生成発展するという特質が、自然の理法によって与えられていない、あるいは自然の理法自体が生成発展の本質を持っていないとするならば、なぜ人間の歴史は発展の過程なのか。衰退が本質だとすれば、人間は今日のような姿にはならないはずである。
やるべきことをやる、なすべからざるはやらない
「自然の理法は、生成発展の性質を持っておるんやから、ものごとは、この自然の理法にのっとっておるならば、必ず成功するようになっておる。成功しないのは、この自然の理法にのっとっていないからで、それは自分にとらわれたり、なにかにこだわったりして、素直に自然の理法に従うようなことをせんからやな」
われわれ一人ひとりの仕事でも、企業の経営でも同じである。もともと、必ず成功するようになっている。それがときとして成功しないのは、自然の理法にのっとって仕事を進めていないからである。やるべきことをやる、なすべからざるはやらない。そうしたことをきちんとやっていれば、成功するのは一面簡単なものである。
「いい物を生産し、多くの人たちに満足されるような安価で販売すれば、商売は繁盛する。人情の機微に即した商売のやり方をすれば、お客さんが大勢やってきてくれる。ごくごく当たり前のことをすれば、商売とか、経営というものは、必ず成功するようになっておるんや」
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