英国はEU離脱で「のた打ち回る」ことになる 「EU研究第一人者」北大・遠藤教授の現地レポ

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この主権的な自決意識とナショナリズムの結合は、今回の国民投票を考えるうえでも重要だと思われる。つまり、英国独立党のような、2013年までは周辺的で、その後も決して多数派を掌握できない政党ではなく、何世紀ものあいだ主流を形成してきた保守党とその支持者にも、その2つの結合を経由して欧州懐疑主義が拡がっていった。そのことで初めて、局所的な運動を超えて、それはうねりをなしたのである。

「グローバル化の緩衝材」になれなかったEU

他方、これらの動きと重なるが、やや波動が異なる形で、最大野党の労働党、そしてその支持者である末端の労働者側に不満が蓄積したのも大きい。もともと、労働党は従来EECやECへの違和感を隠そうとしなかった政党だが、1980年代末頃から1990年代半ばまでは、仏社会党員でもある欧州委員長ドロールが主導した「ヨーロッパ社会民主主義的な統合像」のもとで、EC・EUに対してむしろ好意的であった。世紀転換期に労働党政権を担ったブレア(元首相)に至っては、フランス語を操り、自ら親欧であることを隠さない首相であった。

その社民的なEU像とは、グローバル化への緩衝材としてEUを構築し、単一市場や単一通貨の枠内でヨーロッパ大の社会的な連帯を模索する道だった。しかし、これがグローバル化のいっそうの深化にともない、もはや21世紀の初頭には失効したように映る。ここでは、EUが社会連帯のツールとみなされず、グローバル化のもう一つの顔となってしまった。当然、労働者がそっぽを向くことになる。

これと並行した流れは、隣の国に見出すことができる。やや時代はさかのぼるが、2005年春、フランスは(オランダとともに)国民投票で欧州憲法条約の批准を拒否した。

これはEUを数年麻痺させた一大事件だったが、この過程で、労働者がEUに背を向けた。とりわけ、水道その他のサービス自由化を目指した「ボルケシュタイン指令」が欧州委員会から出され、フランスの公営企業に勤める労働者たちが反発を強めていた。

このなかには、政治的に穏健な中道左派、女性の雇用者が含まれていた。ここにおいて、EUはグローバル化の荒波から労働者を守るのでなく、むしろ雇用や生活を脅かす存在、つまりグローバル化の別の顔として意識されたのである。

この2005年のフランスの事例でも、ポーランドからの移民が職を奪うと喧伝されたが、2016年のイギリスでも同様に、ポーランドやリトアニアからの移民が雇用の不安定化、実質賃金の低迷の原因と目された。本当のところは、地元の英国人労働者とそれらの移民は直接労働市場で競合しているかどうか不明で、移民の多いイングランド東部のボストンのような地区の経済は、むしろ失業率も低く好調だった。にもかかわらず、それは脅威と映ったのだ。

この東欧移民がEU加盟国の市民であることは大事なポイントである。つまり、EU域内では自由移動が可能で、ブレア政権は2004年のEU東方拡大の際に東欧移民に制限をかけなかった。いまでは、約300万以上のEU移民がイギリスで暮らしている。その分布図と欧州懐疑主義の強い地域とは(ボストン近辺を除いて)少しずつずれているのだが、隣町にいるEU移民によって、自分たちの職や生活が脅かされているというイメージが作られた。これにより、〈移民=EU=グローバル化=雇用不安〉という構図が出来上がったのである。

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