(第5回)「沢田研二」というキャラクターの作り方

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(第5回)「沢田研二」というキャラクターの作り方

 

高澤秀次


●ヒットメーカーの「職業的鬱病」の原因

 順風満帆に見えた阿久悠の作詞家人生に、最初に黄信号がともったのは、1979年から80年にかけての半年間の"休筆"よりも、さらに5年前のことだった。

 『夢を食った男たち-「スター誕生」と歌謡曲黄金の70年代』によると、74年から75年にかけて、作詞家はスランプとも違う「職業的鬱病」にはまりこみ、いつやめようかという気持ちになっていたという。
 ヒット曲が連続するなかで、「何を書いても、あまり興奮しなくなり、たとえ、それが売れても嬉しくない」という最悪の精神状態に陥ったのである。贅沢な悩みと言えば言えるのだが、やはりそれも阿久悠ならではの産みの苦しみだった。

 プロ野球の世界には、3割を打ったことのないバッターに、スランプはあり得ないという名言がある。つまりそれは、技術的に未熟な選手の不調とは別の"壁"なのだ。
 阿久悠の「職業的鬱病」は、何の不足もない状態での突発だけに、ヒットメーカーのスランプよりも、さらに複雑な何かだった。
 単に歌が売れるだけでは満足できず、彼は衆人の度肝を抜くような、あるいは業界関係者をギャフンと言わせるような、そんな衝撃力ある詩によってしか快感を得られない厄介な作詞家になっていたのだ。

 だからこそ彼は、同業者に対して、特殊なジェラシーを燃やしたりもする。
 「たとえば、その時期にヒットしていた『シクラメンのかほり』(小椋佳作詞)や『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(阿木燿子作詞)などを、自分の感性で捉えられなかったことを、本当に口惜しがっていた。新しいねも、変わってるねも、いいねも、独占したかった」(同前)
 前者は布施明による1975年のレコード大賞受賞曲、後者は宇崎竜童のダウン・タウン・ブギウギ・バンドが歌った同年のヒット曲である。片や北原白秋調の歌詞にフォーク系の楽曲、片や台詞回しが劇画の断片を喚起させるシンプルなロック。
 およそ別ジャンルの曲だが、その斬新な着想と豊かな時代感性に、阿久はしてやられたと思ったのである。

●「嫉妬」が創造のエネルギー

 阿久悠という作詞家の最大の特徴である進取の気性、それは時代の尖端への飽くなき挑戦の気構えでもあったのだ。
 「してやられた、先を越された」
 そんな危機意識が、歌の「市場性」への彼の曇りない眼を養っていた。
 逆に、作詞家としての"既得権益"にあぐらをかき大御所を気取った瞬間に、彼は創造性を失った、ただの印税生活者に転落してしまうのだ。プライドが彼を頑なにし、謙虚な同時代への目配りを失わせる。

 同業者の作品への、とりわけヤンガー・ジェネレーションの感性への嫉妬は、その意味で阿久悠という作詞家の創造のエネルギーそのものだった。同時にそれは、歌の「市場性」へ向けてアンテナを張る、彼の危機管理能力の優れた一面でもあったのだ。

 すでに小椋佳や阿木耀子の新作を、余裕をもって受け流し、あるいは無視してもおかしくはないキャリアと知名度を保持していた作詞家が、「ゴツンと頭を叩かれた」(『愛すべき名歌たち-私的歌謡曲史-』より)と語り、また「ぼくはひどくくやしかった」と顕わに感情を表明しさえする。
 あくまで彼らと、同じ土俵で勝負しようとしているのだ。
 これが阿久悠の、決して業界人ずれしない社会性の秘密でもあった。
時代とともにある歌の社会性は、このように業界内の年功序列を超えた"同業他者"との競合の末の、誰も手を着けていない言葉の市場化可能性の追究にかかっていたのだ。

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