映画はより家族の物語に引き寄せていた
――完成披露会見では、監督たちと「かなりやり合ったと」おっしゃっていました。物語の進行としては原作に忠実でありながら、クライマックスは原作とは異なる映画ならではのエンディングとなっていましたが。
まさしく映画ならではの作法ですよね。しかもカタルシスの配分が難しい2部作で描くという中で、あの結末は必然だったのだろうと理解しています。私が小説で描いたテーマを理解した上で、原作を越えようとしていたのでしょうね。瀬々監督にしても、佐藤浩市さんにしても、映像作品はかくあるべしという強固な意志を感じましたね。小説では組織人としての主人公に軸足を置きましたが、映画ではより家族の物語に引き寄せた感じがあります。そこは小説とも地続きなので、この終わり方に賛同しましたし、活字と映像の良好な棲み分けができたとも思っています。
――人間と人間とのぶつかり合いが「64(ロクヨン) 」の醍醐味のひとつだと思います。製作の裏側でも人間同士のぶつかり合いが行われていたのでしょうか。
いや、ケンカをするつもりはなかったですから(笑)。冷静かつ紳士的にやりとりをしましたよ。そもそも私は、原作に忠実な映画ができあがるなどという幻想は持っていません。それは以前、マンガのシナリオを書く仕事をしていたからで、どれほど練り上げたシナリオを書いても、マンガ家さんが線を一本入れた瞬間から、それはもうマンガでしか表現できない世界が無限に広がっていくんです。ですから、原作に忠実ではないということで、とやかく言うことはありません。監督さんに預けたからには、映画として良いものに仕上げてくださいということです。
そうは言っても、活字の読者に対する責任もあるので、シナリオはきちんと読んで思ったことは言わせてもらいました。監督たちに覚悟がなければガタガタになったでしょうが、瀬々さんも佐藤浩市さんも、こうやりたいんだという自説を曲げませんでしたね。
――とはいえ、完成披露会見の場では、小説家としては負けた気がしないとおっしゃっていましたが。
そりゃそうですよ(笑)。こっちも長い年月苦しみ抜いた仕事ですからね。ただ、佐藤浩市さんが命を削ったと言っていた通り、“ホンモノ”の人間たちが結集して本気を出すと、非常に手ごわい映画になると感じましたね。かなり懐まで踏み込まれたような落ち着かない気分になりました。
――この小説を発表するまでに7年の月日がかかったそうですが。相当、思い入れの強い作品となったのでは?
もちろんです。他の仕事をしながらですが、書き出してから10年以上かかりました。数え切れないほど書き直しをしましたし、発売日が決まってから、それを中止してまた全面改稿したりしましたからね。デビュー当時からずっと、人間ドラマとミステリーの両方を、がっぷり四つで融合させることを目標に書いてきましたが、その意味で『64(ロクヨン)』は今の段階では集大成といえる作品に仕上がったと思っています。
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