――映画の予告編では「横山秀夫 最高傑作」と出ていましたが。
それは毎回謳われてしまいます(笑)。ただ、「最新のポルシェが最良のポルシェ」じゃないですけど、何を作るにしてもそれは当たり前のことですよね。最新作が最高傑作でなければ世に問う意味がない。少なくとも書き手はそれぐらいの気概がなくちゃ。もちろん最高傑作かどうかは読者が判断することですけどね。
虚構でパンパンに膨れた頭の中を見せたい
――記者クラブ内での激しいやりとりが印象的でした。
少し時代が古いですけどね。記者クラブと警察の関係というのは、時代によって流行みたいなものがあります。しかし本質的な部分は昔も今も同じです。こういうことが起きた時には記者の中でこんな化学反応が起き、警察の中でも警察ならではの化学反応が起きる。そのふたつの化学反応がぶつかるとこういう事態が生じる。時代が変わって双方がクールになっても、火種が深刻で、ボタンの掛け違いが重なれば『64(ロクヨン)』のような騒動に発展する可能性があるということです。
つまり一種のシミュレーション小説なんですよ。それを支える構造的な部分については自信を持って書いています。ただ、現場とデスクが本性をさらけ出してやり合う「クライマーズ・ハイ」の世界に憧れて新聞記者になったのに、現実はあうんの呼吸ばかりでガッカリした、みたいなことは言われたことがありますが(笑)。
――自身、作家になる前は、上毛新聞の記者だったことはよく知られています。
12年間、それこそ寝食を忘れて取り組みましたし、記者の仕事に誇りを持ってもいました。だから虚構の世界で生きていこうと決断するまで大いに悩みました。広く深い川を渡ってフィクションの世界に行ったつもりですが、横山秀夫は記者時代の遺産をリュックに背負って、ひょいとフィクションの方に行ったと思われがちです。もちろん書いたものがすべてなので、そう思われても一向に構わないのですが、本人からすると、虚構でパンパンに膨れた頭の中を見せたい気持ちがありますね。
よく、作家になるための土台固め、あるいは知見を広げるために新聞記者になったのですか、と聞かれますが、そんな気持ちはまったくありませんでした。子どもの頃から書くことが得意で好奇心も強かったので、新聞記者という職業を選んだわけです。ただ、12年間やってみて、新聞ジャーナリズムというものは、社会のシステムや事象を分析したり、警鐘を鳴らしたり、提言をすることには長けているけれども、移ろう人の心をトレースするには不向きなメディアだと分かりました。そのあたりが作家に転向した理由のひとつであることは確かですね。
――作家になるにあたり、記者経験が役に立ったのでは?
たとえばですが、虚構の世界に想像の橋を架けていくことが小説を書く作業だとするならば、その土台となる橋脚部分に、記者時代のさまざまな経験や知識、獲得した真理といったものが役立っていると思います。これは作法の話になりますが、小説というのはオセロゲームのようなもので、虚構と虚構の間に真実を挟むと、真実がひっくり返る。つまり嘘くさい話になってしまう。逆に、真実と真実の間に虚構を挟みこむとそれが真実の方にひっくり返るわけです。なので、橋脚よろしく、一定間隔で真実の杭を打ち込んでおけば、あとは思う存分、想像の翼を広げられる、ということです。
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