冒頭の宣伝文にもあった「ホリディガール」と呼ばれた末端の販売員は、本体にまず3900円を納め、化粧品を3割引で購入できる権利を得た。その上位職が「オーガナイザー」で3万2550円を会社に払うものの、「ホリディガール」を束ね、マージンを得られるようになる。さらにマスターディストリビューターは82万5000円を会社に支払うと、65%も安価に仕入れができるようになる。
各国の化粧品メーカーとも、高いマーケティングコストがかかっていたから、ホリディマジックは27カ国に進出し、そして錬金術のように利益を稼いでいった。1974年には弁護士としても有名だった日本大学教授が雑誌「実業の日本」で「この方法こそ、むしろ、日本の流通業界が真剣に学ぶべきものではないか」とまで語った(1974年6月15日号)。趣旨ではないため名前は控えるものの、氏は違法性がないことを強調し、そして「副業の本命」とまでいった。このような”援軍”も得て、ホリディマジックは急拡大していく。
紹介した新聞広告は1975年8月のもので、有名教授が絶賛したのは1974年6月だったが、トラブルは絶えなかった。1974年10月には出資金の返金を求めて、ホリディマジック全国被害者対策委員会から団体交渉を受けているし、同年10月下旬には東京都衛生局から乳液などが不良品だとして回収を命じられている。
ホリディマジック人材育成法
ホリディマジックは、セールスがすべてを握っていた。したがって、売れる人間を育てるための人材開発は欠かさなかった。ただ、考えてもわかるとおり、インターネットなどがなくリアル販売が多数を占めていたとはいえ、いきなり訪問営業し販売できるかというと、そんな甘いものではない。
セールスの最前線を担った人たちは、当然「帰れ」「もう来るな」「そんな商品いらない」といった拒絶を受ける。そのときに笑顔で居続けなければならない。あるいは、精神的にダメージを受けず、ポジティブに考え続けなければならない。そのとき、「自分で自分を変えられる」「望んだ結果は、必ず手に入る」といった考え方はあまりにぴったりではないか。
1974年に産業新潮(産業新聞社)では、このホリディマジックを企業宣伝として掲載している。6回にもわたる重厚な内容は、そのほとんどが精神面を強調するものだ。たとえば、当時、日本ホリディマジックのA・W・パンガール社長の講演録では、このような感じだ。創始者のウィリアム・ペン・パトリックを指して、こう言う。
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