ノーベル平和賞のEU、欧州統合の歴史【2】
通貨統合は徐々に加速していったが、最終的な決め手となったのは、独コール首相と仏ミッテラン大統領との「盟約」である。コールは16年間にわたって保守政権を維持し、西ドイツの繁栄を築いた。欧州での経済力はすでに抜き出ており、東西が統一されれば、人口8000万の欧州としては巨大な国家が誕生する。ナチス暴走の悪夢も残る。ミッテランはサッチャーとともに、強大な統一ドイツ誕生を警戒した。
(タイトル横写真、ベルリンの壁崩壊を祝う<写真は20周年式典>、European Union,2012)
ドイツ統一を支持し、ミッテランに働きかけたのが、ドロールだった。ミッテランはコールに対し、ドイツ統一を認めるのと引き換えに、ドイツが最強通貨マルクを放棄し、単一通貨を導入することを要求。それによりドイツをECの枠に捉えておこうとしたのだ。独仏の政治的な取引は成立した。
「いま私が決断しなければ、ユーロ導入のチャンスは来ないかもしれない」。当時のコールの言葉には、迷いを振り切る強い決意が感じられる。ドイツはもともと、域内の経済格差を考慮し、通貨統合前に各国の経済レベルを収斂させるべきと主張していた。単一通貨導入により、ドイツは壊滅状態の東ドイツを抱え込み、南欧との格差も引き受けることになる。それでもコールは、「ドイツの欧州ではなく、欧州のドイツを求める」と繰り返し、欧州建設という大義を掲げ、通貨統合の受け入れを表明した。
92年、ドロールが主導してまとめた欧州連合条約(マーストリヒト条約)が調印された。これにより、ECは欧州連合(EU)へと変容することになった。同条約には、99年の単一通貨導入に向けた段階的なプログラムが詳細に書き込まれた。通貨の呼称は当初、「ECU」が予定されたが、ドイツの要求で「ユーロ」に変更された。
(92年にマーストリヒト条約は調印された、European Union,2012)
ミッテラン、コール、ドロールの3人の実力者は、通貨統合を実現に漕ぎ着けた、まさに立役者だった。いずれも98年までに、任期を終えて退陣したが、99年、ユーロは予定どおり導入された。