ノーベル平和賞のEU、欧州統合の歴史【2】

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85年のEC委員長就任後、市場統合に向けて全力で作業を進めていたドロールに、元イタリア中銀総裁のトマソ・パドア=スキオッパ(後に欧州中央銀行(ECB)理事)が、通貨統合に取り組む時が来ていると進言した。


(ドロールの宿敵だったサッチャー英首相、European Union,2012)

ドロールはEC加盟国の中銀総裁会議に、単一通貨導入の作業計画作成を要請。自ら同会議の議長を務め、「ドロール委員会」を組織した。これには反発が生じた。サッチャーは国家主権の侵害だとして猛然と噛みつき、ドイツ連銀のペール総裁も、強いマルクを捨てる気はないと反論した。

当初孤立したドロールだったが、大陸側の中銀総裁の説得に次第に成功。ペール総裁に対してはコール首相が話をつけてくれ、英国では通貨当局が、通貨統合は当分先の話で、孤立するのは得策ではないとサッチャーを説得した。

88年、「ドロール委員会報告」が完成。同報告は三つの段階で通貨統合へと至る「経済通貨同盟」(EMU)創設をうたった。ここで市場統合の流れと通貨統合の流れが合流する。 

決め手となった
独仏首脳の盟約

その間、サッチャーの反ブリュッセルの対決姿勢は、EC首脳間で次第に孤立を深めた。英保守党内の権力闘争も絡み、90年には首相を辞任。ドロールの強敵が、ECの表舞台から姿を消したのだ。

もう一つ歴史的な出来事が進行していた。89年に東西ドイツのベルリンの壁が崩壊し、91年にはソビエト連邦が消滅した。「歴史は急いでいる。われわれも急がなければならない」。ドロールが当時口にしたセリフである。

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