ノーベル平和賞のEU、欧州統合の歴史【1】

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戦争で荒廃したフランスには、欧州を率いる力はなかった。そこで工業を急速に回復させている西ドイツと肩を組むことにした。ドゴールが取り出したフランスの売り物は、西ドイツにはないもの、つまり核戦力と豊かな農業だ。ECの共同市場の基本となる工業製品を中心とする「関税同盟」は、ローマ条約に決められた予定通り、段階的に12年で順調に導入された。しかし農産物に関しては、たびたびEC分裂の危機が叫ばれる厳しい交渉となった。

フランスが要求した農産品の統一価格制度は、大ざっぱにいえばフランスの農産品をEC域内で、国際価格よりかなり割高な価格で買わせる仕組みである。米国や英連邦諸国の安い農産品を締め出そうという意図が丸見えなのだ。ほかのEC諸国も、これには激しく反発した。ドゴールの手法は極めて脅迫的で、会議をボイコットしたり、条約破棄をちらつかせたりもした。ドゴールは回想録で、フランス農業のためには脅しもやむをえなかったと、正直に告白している。最終的に69年末、フランスの要求を受け入れた「農業共通政策」が完成したが、ドゴールの国益優先主義はここでも明白だった。

英国のEC加盟は、ドゴール引退後、その弟子たちの手で実現した。ECは加盟国の「拡大」と統合の「深化」を掲げていた。その後、「拡大」は次々と実現し、加盟国数は増えていった。しかし「深化」は一向に進まなかった。

英国は大陸との共同市場に参加できたことで満足していたし、伝統的に政治統合にはあまり関心がなかった。逆に農産品統一価格制度の分担金引き下げを要求したりして、ブリュッセルの委員会と厳しく対立する場面が多かった。ECの加盟国数は72年に6から9へ、86年までに12へ、欧州連合(EU)となった後の95年に15へと増え続けた。数が増えれば利害も複雑化する。「深化」は停止し、統合は停滞した。

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