ノーベル平和賞のEU、欧州統合の歴史【1】
69年2月、ソームズ事件と呼ばれる騒ぎがあった。新任のニクソン米大統領が、欧州訪問の第1歩としてベルギー・ブリュッセルに到着する前日、AP通信が特ダネを流したのだ。ドゴールが英国の駐パリ大使ソームズを通じて、欧州の大改革を話し合う英仏交渉を提案したというのである。ドゴールがそこで示した構想は、米国中心のNATO(北大西洋条約機構)を解体し、代わりに英仏独伊の4大国による政治的な中核をつくり、EECは自由貿易地域として残す、というものだった。
フランス政府は、ドゴール大統領のソームズに対する発言は捻じ曲げられており、真実ではないと否定した。しかし、その後の英国政府や関係者の話を総合すると、APの報道は間違いないものだったとみられている。フランスは沈黙を守り、ドゴール構想もそのままどこかへ消え去ってしまった。
ドゴールはその前年の68年5月、戦後の旧体制に対する学生の反乱、5月危機に襲われ、深く傷ついた。同年11月には、揺らぐ通貨フランの切り下げを拒否し、最後の「ノン」を叫んだ。そして翌69年2月のソームズ事件を経て、2カ月後の4月に自ら幕を引くような形で引退する。
ドゴールの戦略もこの辺りが限界だったのだろう。6カ国だけの共同体に閉じこもる時代は終わり、より開かれた欧州統合が求められる時代が来ていたのである。70年11月、ドゴールは80才の誕生日の数日前に、3度目の英国加盟交渉の結末を見ることなく他界した。
国益を優先して
共同体に尽力
欧州統合の発展に結果として大きく貢献したとはいうものの、ドゴールの心は最後までナショナリストだった。共同体の発展に力を入れたのは、あくまでフランスの国益を求めてのことである。