ノーベル平和賞のEU、欧州統合の歴史【1】
もう一つ、世界を驚かせたドゴールの決断が、欧州問題だった。当時、ナショナリストのドゴールが、大統領就任直前に調印され、発効していたローマ条約をどう扱うかに世界は注目していた。ここで焦点となったのは、大陸側の欧州経済共同体(EEC)と英国との関係だった。大陸側はスパークのローマ条約起草作業の段階から、英国の参加をしきりに呼びかけていたが、英国は共同体結成の作業をあまり重視しなかった。どうせ足の引っ張り合いで、思うようにいかないだろうと高をくくっていたようだ。
英国はスパークの作業グループに送り込んでいた代表もさっさと引き上げた。大陸との付き合いよりも、米国や英連邦諸国との関係のほうが重要だったのである。その代わりに提唱したのが、全欧州を包含する自由貿易地域の結成である。そのための交渉も開始した。英国の魂胆は、大陸の共同体をその中に取り込み、吸収してしまおうというものだった。
ドゴールの再登場で英国は期待を膨らませた。フランスの政界では「祖国の栄光」を唱えるドゴール派は、モスクワに忠誠を誓う共産党とともに、共同体創設に反対していたし、ドゴール自身、共同体は国家の尊厳を損なうものとして批判的な考えを表明していた。
しかし、ここでドゴールは、大方の予測とはまったく異なる決断を下した。59年1月、大統領官邸に入ると、大陸6カ国のローマ条約を実施する作業を直ちに開始するよう命じたのだ。同時に、英国との自由貿易地域結成の交渉を打ち切ると宣言したのである。英国はやむを得ずEEC不参加の7カ国を集め、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を結成し、大陸の共同体と対抗した。
EUの基盤である
独仏関係を構築
ドゴールはこれと並行してもう一つ大きな仕事を成し遂げた。独仏関係の構築である。権力の座に戻って間もない58年9月、ドゴールは西ドイツのアデナウアー首相を、パリから遠からぬ私邸に招き、2日間の親密な会談を行った。フランスは西ドイツに、英国抜きの欧州建設への緊密な協力を求め、西ドイツはフランスに、国際的な地位回復への全面的な支援を求めた。