ノーベル平和賞のEU、欧州統合の歴史【1】
歴史的に憎しみ合ってきた独仏の2人の老政治家は、完全に意気投合し、その後も親密な交流を続け、歴史の流れを変えた。ドゴールの回想録によると、アデナウアーが引退するまでの5年間に2人は40回書簡を交わし、15回会談して、計100時間以上もの話し合いを重ねたという。
ジャン・モネの石炭鉄鋼共同体(ECSC)に始まった独仏の歴史的和解はこうして揺るぎない独仏枢軸へと発展した。両国の握手の結果、EECの基盤はドゴールの任期の7年の間にしっかりと固められ、今日も欧州連合(EU)の基盤となる独仏関係に継続されている。多くの米英系ジャーナリズムは、ドゴールを偏屈な変わりものと扱ったが、その「偏屈な」ナショナリスト、ドゴールが欧州統合に果たした役割は大きい。
独仏関係を固める一方で、ドゴールはアングロサクソンの世界、米国と英国に対しては厳しい対決姿勢を取った。英国のEC加盟も、ドゴールが死ぬまで陽の目をみることがなかった。英国は、大陸の共同体の関税同盟を始めとする経済統合が順調に進むのを見て、欧州で孤立することを怖れた。そこで61年、保守党のマクミラン首相はECへの加盟申請に踏み切ったが、ドゴールのかたくなな拒否で実現しなかった。67年にも労働党のウィルソン首相が2度目の加盟申請をしたが、同様に拒否された。
ドゴールのこうしたアングロサクソン嫌いはどこから来るのか。何よりも、米ソ2大陣営が支配する戦後のヤルタ体制に対する強烈な反発があった。英国は米国の分身であり、その手先となっているという位置づけだ。
一方でドゴールは、大陸側の欧州統合に貢献したが、ドゴール自身、欧州の「連邦」化には拒否反応を示していた。連邦、すなわち超国家という思想は、国家の尊厳を否定するものと考えたのだ。そのためジャン・モネに対してさえ、時に容赦ない攻撃を与えた。ドゴールが年2回開く記者会見で主張し続けたのは、「祖国からなる欧州」だった。国家連合であって、国家統合ではない。では、ドゴールが考えていた国家連合とはどのようなものか。それを推測する手がかりがある。