ノーベル平和賞のEU、欧州統合の歴史【1】
ECSCの成功を踏まえ、モネは55年、念願の「連邦」方式の欧州建設を目標に、「欧州合衆国(The United States of Europe)のための行動委員会」を組織。自ら議長となって活動を始めた。
モネの働きかけに応じ、ECSCに参加した6カ国の政治家たちも動き出した。中心になったのは、ベルギーの首相や外相を務めたポール=アンリ・スパークである。米ソの谷間で欧州経済を蘇生させるには、諸国の力を合わせる以外にない。しかし、モネが主張する「連邦」は、国家主権の放棄を意味するもので、いきなりそこへ進むことは難しい。(タイトル横写真、European Union,2012)
そこで当面は、6カ国の経済を一体化する「共同市場の設立」が目標に決まった。モデルとなったのは、ベネルクス3国が戦時中の40年代から結成していた「ベネルクス関税同盟」である。欧州派の政治家たちは、ベルギーのスパーク外相を中心に、域内の関税を撤廃して対外関税を共通化する「関税同盟」の実現と同時に、さらに一歩進んでさまざまな経済法や慣習を統一するための条約作りを開始した。
2年間に及ぶ厳しい交渉の結果、「欧州経済共同体」(EEC)と「欧州原子力共同体」(ユーラトム)結成の条約が完成し、57年3月ローマで調印された。この「ローマ条約」は翌年発効し、二つの共同体が発足。ECSCを含む三共同体は67年「欧州共同体」(EC)へと一本化された。
ローマ条約作成で最後まで問題となったのが、共同体が目指す将来の目標をどのように規定するかである。超国家という思想を示す「連邦」には時期尚早という意見が多く、激しい議論の末、条約の前文に「絶えず緊密化する同盟(ever closer union)を目指す」と書き込むことで妥協が成立。将来の政治統合を意味する当面の表現だった。
ドゴール大統領が下した
二つの驚くべき決断
58年のローマ条約発効と時を同じくして、欧州統合の歴史の中で、特筆すべき重要な役割を果たした一人の軍人政治家が登場する。戦後のフランスのもっとも「偉大な」大統領、シャルル・ドゴールである。将軍ドゴールは大戦中、ロンドンに亡命政権を樹立し、ドイツの占領に対する武装抵抗(レジスタンス)を組織して戦った国民的英雄だった。