哲学者とは、こんな生活をずっと続けている、きわめて特殊な人種です。私も、こうした疑問に埋没する生活を、かれこれ50年、いや、7歳ごろから古希に近いいままで「休みなく」続けてきました。
とすると、「難民対策をどうすべきか?」とか「地球温暖化問題どうすべきか?」という類の問いが浮かばないことはないのですが、「こうこうすべきだ」と考えたとしても、そのとたんに「さて、私はなぜいま『すべき』と考えたのだろう、『すべき』という言葉を了解しているからだが、その意味はやはりわからない」という疑問が当の「難民問題」や「温暖化問題」をいわば呑み込んでしまい、いつしか「すべきとは何か?」について考えてしまっているというありさまなのです。
もちろん、中学生のいじめ自殺や幼児虐待のニュースを聞くたびに、加害者に対してむくむく怒りが生じてきますが、それも長続きせずに、このすべては太古の昔から決定されていたのかもしれない、防げたはずだとみなすのは、錯覚かもしれない……という思いへと、ずれていってしまう。
つまり、時折は、人並みの社会的問題に対する関心が湧かないこともないのですが、すぐに哲学が、それをとらえてしまい、それをあっという間に哲学的問いに変形してしまうのです。
世の中から離れようとする哲学者は、むしろ軟弱
さらに、こうして絶えずさまざまな(社会的問題ではなくて)哲学的問題を考えていながら、いつも根本的な疑問が控えていて、私を叩きのめす。すなわち、「世界が『ある』とすると、なぜこんなわけのわからない世界が『ある』必要があるのだろう?」という問いが襲ってくるのですが、この問いはそのまま「私が『いる』とすると、なぜこんなわかのわからない私が『いる』必要があるのだろう?」という問いに重なり合います。
そして、「もしかしたら、世界や、時間や、私は、いや森羅万象は『ない』のかもしれない、ただ『あるかのような』相貌をしているだけなのかもしれない」と思いが膨らんできて、「とすると、なぜ『あるかのように』見えるのだろう?」という新たな疑問が立ちふさがる。
こうして、たえず、社会問題が雨あられのように降り注いでも(私はテレビの二ユースは丹念に見るし、新聞もよく読みます)、それに対して「どうしたらいいのか?」とか「賛成だ」とか「反対だ」という判断にまで至らないのです。
ですから私には、古来、世の中から離れて孤高を保とうとした哲学者たち(エピクロス学派や竹林の7賢)あるいは、修道院に隠棲するクリスチャンたちは、ずいぶん軟弱に見える。私の場合、どんなに俗世にまみれていてもほとんど俗世の問題に左右されず、頭の中はまったく別のことを考えているのですから、たとえ新宿歌舞伎町にいても、身は「安全」なのです。
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