私からすれば、「世の乱れ」に対して嘆く哲学者って、あるいは国家や社会のあり方について「こうすべきだ、ああすべきではない」と喋り散らす哲学者って、相当レベルの低い哲学者であって、そうなるのは、たぶん彼らが哲学にあまり真剣に取り組んでいないから、真の哲学的問いに対する感受性を錆びつかせているから、なのでしょう。
逆に哲学の問いを、社会問題という低レベルの問いが呑み込んでしまっているから、とも言えるでしょう。
以上のようなわけで、「哲学塾」では、私以外の10人の講師の方々も、講義中、社会問題に触れることはまずない。それは、私が禁じているからではなく、自然とそうなってしまうのです。言いかえれば、私の嗅覚により「哲学とは何か」に関して最低限の共通了解が成立している方々にのみ講義を依頼しているからでしょう。
この傾向は、塾生たちについても成り立ち、授業中は当然のことながら、呑み会の席でも、社会問題(とくに「オヤジ談義」)が展開されることはまずありません。このことは、哲学塾に参加する人々のうち、「よい社会」の実現を願っている人はほとんどいないこと、言いかえれば、ほとんどの人は社会を変えれば解決されるとはまったく思っていない「問題」を抱えて哲学塾にやって来ることを示しています。
哲学するとは「物の見方を根本的に変えること」
では、何を変えれば解決されるのか? 何を変えても駄目なのです。少なくとも、外的なものは、日本であろうと、世界であろうと、宇宙であろうと、何を変えたとしても解決策は見当たらない。
そうではなく、世界に対する考え方、いや世界に対する「見方」を変えることによってのみ、解決されるかもしれない問題(それが哲学的問題です)があるのです。それに気づいた人が「哲学塾」の門を叩くのだ、と言っていいでしょう。
カントに「哲学はけっして学ぶことができず、学びうるのはせいぜい哲学することだけである」という、さまざまに解釈されてきた有名な言葉がありますが、私見によれは、この言葉はまさにこのことを語っている。
すなわち、哲学するとは、「物の見方を根本的に変えること」であって、「哲学塾」で私が講義を通じてできることは、せいぜいその「きっかけ」を教えることだけなのです。あとは、各人があくまでも自力で、現に(全身で)「物の見方」を変えねばなりませんが、それをどうやって実現しうるのかを教えることはできません。
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