フランスワインの定着 その4:ボルドーワイン《ワイン片手に経営論》第8回

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■「ワインの女王」と呼ばれるボルドーワイン

 ボルドーは川岸にある街で、大西洋に注ぐジロンド河を約80キロメートル遡り、そこでドルドーニュ河とガロンヌ河に二股に別れたところで、右方向から注いでくるガロンヌ河をさらに約20キロ遡ったところにあります。この街は、外海からの商船のアクセスが良かったため、商業港として発達してきました。今回の内容より時代は先となりますが、エドゥアール・マネの「ボルドーの港」という1871年に描かれた作品には、数多くの船が川べりにひしめきあっている様子が描かれており、その様子が伺いしれます。

 しかし、地の利があるこのアキテーヌ地方は、それゆえに、領土争奪戦の格好の場所でもありました。紀元56年にローマ帝国に征服された後も、匈奴(きょうど)と思われるアジアの遊牧民フン族がヨーロッパに西進したことをきっかけにおきたゲルマン民族の大移動で、アキテーヌ地方にはゴート族、ヴァンダル族、西ゴート族などが、次々と侵入してきました。476年にローマ帝国が滅亡した後は、507年に今のフランスであるフランク王クロービスが西ゴート王国のアラリック2世を打ち破り、アキテーヌ地方はフランスに統合されますが、クロービスの死後、今度はスペインのバスク人の侵入を受けます。その後、カール大帝が778年にスペイン人を打ち破り、再びアキテーヌ地方を統合しますが、今度はヴァイキングの侵入を受けます。

 このようにアキテーヌ地方は、侵入を受けやすい場所であり、紛争が絶えない場所でした。そして、支配者が次々と変わっていく土地柄のため、イスラム文化の影響を受けたり、北フランスほど徹底した家父長制度、封建制度、領主制度などが発達しなかったりと、独自の文化が発達することになり、紛争の中でもローマ帝国時代の都市生活は存続し、ボルドーはこの地方の政治・宗教・商業の中心地であり続けました。

 最終的には、1137年にアキテーヌ公国ギョーム10世の娘エリオノールがフランス王子ルイ(同年ルイ7世として即位)と結婚し、ボルドーはフランスに統合されます。しかし、1152年、ルイ7世とエリオノールは離婚。その同じ年に、エリオノールはイギリス・プランタジネット家のアンリと再婚し、1154年にはアンリがイングランド王ヘンリー2世となります。ここで問題になるのが、アキテーヌ地方が常にエリオノールと一緒について回ったことです。つまり、ルイ7世と結婚したときに、アキテーヌ地方はフランスに統合されますが、その後ヘンリー2世と再婚したときには、アキテーヌ地方が今度はイギリスに統合されるということになったのです。

 以来1453年まで約200年間、ボルドーとイギリスの長い関係が続きます。この200年間は、三角形の1番と2番をイギリスとフランスで獲り合う長い戦争の時代でした。12世紀ころのイギリスとフランスの領土は、大まかにイギリスが三角形の1番と2番、フランスは3番から6番という関係であったようですが、その後、イギリス領は圧迫され、15世紀のころには三角形の2番の南部まで押し込まれていました。

 以上、ボルドーの歴史的背景を振り返ってきましたが、このようなイギリスとの密接な歴史が現在でもボルドーワインが『ワインの女王』と呼ばれる所以であるわけです(なお、ブルゴーニュワインは、『ワインの王様』と呼ばれています)。

 そして、13世紀に入ってボルドーが重要なワイン産地として認知され始めます。第5回のコラムでボルドーの厳しい気候に耐えられる「ビトゥリカ」という品種がもたらされたお話を記しましたが、このお話はおよそ紀元1~2世紀ほどのことでした。それからボルドーがワイン産地として陽の目を見るまで1000年以上もの時間を必要としたのでした。

 さて、この1000年の時間の流れに終止符を打ち、ボルドーがワイン産地として発展していくのは何がきっかけだったのでしょうか?

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