フランスワインの定着 その3:ブルゴーニュワイン《ワイン片手に経営論》第7回

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■諸侯と教会がもたらした影響

 まず、当時の状況から見ていきましょう。

 313年、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝はミラノの勅令により、それまで異端として、さまざまな弾圧を行ってきたキリスト教を公認宗教としました。さらにテオドシウス帝は、380年、キリスト教を国教としました。ローマ皇帝がそれまで弾圧を加えていたキリスト教を一転して懐柔したのは、ローマ帝国が支配下におく多様な民族の多くがキリスト教信者であり、キリスト教を押さえることがローマ帝国の安定につながると見越したからでした。

 実際に375年、フン族が黒海北岸に現れ、東ゴート族を支配下においた後、さらに西進し、ローマ帝国領内を侵略するようになりました。ローマ皇帝は、こうした異民族に対抗するために、すでに支配下にあった民族の忠誠心を確保し続ける必要がありました。その意味で、さまざまな民族の信者を抱えるキリスト教が、ローマ帝国を束ねる意味で重要な役割を担ったのです。つまり、宗教によって領地支配を確固たるものとしていったというわけです。

 このような歴史的展開の中で(その後のワイン文化の興隆に)幸いしたのが、ガリアにおいてローマ帝国の皇帝とキリスト教の教皇が、二重構造的にその役割を分担したことでした。ローマ皇帝は民衆支配を目的とした俗権の行使、教皇は信仰を目的とした教権の行使です。ローマ皇帝の配下には、国王、諸侯、領主の三階層が存在し、領土を統治していました。一方、教皇の配下には、大司教、司教、司祭の三階層が存在し、各地の教会(修道院・修道会)を通して、民衆の信仰を支えたのです。この構造は、476年にローマ帝国が滅亡し、481年にフランク王国が成立した後にも、キリスト教が生き残り、フランス国内において教会が存続することを可能にしました。

 当時、民衆支配の皇帝の支配構造のなかで、領地は「荘園制度」というものによって統治されていました。荘園は武装した諸侯が所有し、農民を使って生計を立てていたのです。いわゆる、封建制度の始まりです。そして、こうした封建制が、ワインがフランスに定着していった決定要因となったと考えられます。それは、土地こそが、諸侯にとっても農民にとっても生計を成り立たせるために不可欠の経済単位となっていたからです。諸侯は、農民から税を取り立て自身の生活を支え、農民は自身の食糧を確保するために畑を耕しました。土地が生産の基本単位であり、封建制の社会を支えたのです。

 こうして、ガリア人は、カエサルの『ガリア遠征』によってもたらされたローマ文明とともに、本格的な農耕生活へとシフトしていきました。この農耕生活の重要な産物の一つがブドウ栽培であったと考えられます。

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