20代で抜擢の女性社長がタイで成功した理由 バンコクで実践する「人を大事にする経営」
大学の語学コースでタイ語を学びながら、さて、どうやって食べていくか。最初に手掛けたのは、ペット用衣料品の委託生産の仲介。 ネットを通して日本の個人経営者から依頼されたんです。材料の仕入れから工場の選定、検品の仕組みまで作り上げた。チャイナタウンやウィークエンドマーケット(バンコク最大の野外市場)を走り回って「こんなの作ってくれませんか」と。「なんでペットが服を着るの」と言われました。
――当時はチワワに上着を着せる人はいなかった(笑)。
5年で1シーズンで数百万円の規模になりました。ですが、この仕事を10年も20年も続けるのか。限界を感じて、次に日系の切削加工メーカーを手伝った。現地駐在員だった日本人が独立して起業した会社です。
最初はボランティアの通訳でした。日本人は私と社長だけ。社長はタイ語が全く話せない。社長の意を伝えるには、逐語訳ではなく言葉の背景に踏み込まねばならない。イコール、製造業そのものを勉強しなければならない。モノ作りのこだわり、そしてモノ作りの基本は人のマネジメントであることを学びました。
そのうち営業や経理、品質管理も担当するようになり、自宅にいても社長から電話が掛かってくる。「給料を払うから」と言われて、週3日の出勤が6日になり、専業になりました。そうこうしているときに、今の親会社からタイ進出の相談が持ち込まれた。
精霊に祟られた!
――そして新会社の社長に就任。三段跳びですね。社長として手掛けられたのはどんなことでしょう。
親会社は自社工場の建設を考えていた。私は「不便な土地に自社工場を建てるより、まずは工業団地のレンタル工場で頑張りませんか。その方が人も採用しやすい」と申し上げた。小さく立ち上げたのがよかった。
2年間、私も現場に入りました。親会社から技術者を2人派遣していただいて、マニュアルをタイに適合するように作り替えた。日本では職人の暗黙知の部分がある。そこもきちんとマニュアル化しないと、ここではモノは作れませんよ、と。
2年目から黒字になり、その年に累損も解消しました。私一人ではできません。本当に親会社に支えていただいた。
――順風満帆ですね。
いえいえ。稼働から1年経つか経たないところで事件が起こりました。ちょっと理解してもらえないかも知れませんが、社員が木の精霊に憑依されたんです。
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