ラフカディオ・ハーンが不思議でならなかった日本の欧米化。「ばけばけ」散髪よりもハードルが高かった武士の「脱刀」

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明治4年8月9日、明治政府から「散髪脱刀令」が出されて、髪も服装も、刀を持たないことも自由にやればよい、とされた。

政治家や官僚たちは率先して実践し、一般国民にも県令などを通じて、散髪を推奨する働きかけがなされることになった(過去記事「ちょんまげ→散切り頭で大混乱 朝ドラ『ばけばけ』変な髪型の武士が続出!文明開化の裏側」参照)。

では、脱刀はどうだったのかといえば、同じように「散髪脱刀令」以後、様々な方策がなされていた。

例えば、江戸期において、帯刀者は渡船の料金が無料のところが多かったが、東京府は明治4年9月から「帯刀者の無賃は不条理」として、特別扱いをなくし、無料乗船を禁じている。

明治政府が脱刀に及び腰だったワケ

しかし、随分とまどろっこしいことをしているようにも見える。

髪型や服装とは異なり、刀は持つか持たないかであり、基準は明確だ。にもかかわらず、散髪を推奨したときのように論告が多く出されるわけでもなく、どこか及び腰だ。

いったい、なぜか。それは、士族の反感を恐れたからである。

実は、治安回復のために、すでに明治元年の時点でも刀を持つことを禁止させようとする動きもあった。だが、大久保利通が「時期尚早」として見送りにして、明治4年にようやく「散髪脱刀令」に至った。

それも無理はない。薩摩藩にとって最後の当主となる島津忠義の父、島津久光が散髪・脱刀に激しく反発。西郷と大久保への怒りを露わにしていた。

もともと廃藩置県にも久光はまったく納得しておらず、断行された日は、別荘で鹿児島湾に打ち上げ花火をあげて、怒りを表現したくらいである。明治政府のやり方が、久光はどうにも気に食わなかった。

そんなとき、明治天皇が西国巡幸の一環として、明治5年6月22日から7月2日まで鹿児島に滞在。そのタイミングで、久光は西郷を非難する「14カ条の意見書」を奉呈している。

「散髪と脱刀は秩序を混乱させてしまう」というのが久光の考えであり、意見書では「美風良俗を破壊し、階級を打破し、西洋に心酔すること」など、明治政府の方針を痛烈に批判した。

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