「町に放火して城をはだか城にし、四方に堅固な鹿垣を二重三重に立て廻して、交替の兵を配備して包囲した。二、三カ月近々と陣を据えて、火矢・鉄砲を撃ち込み、さまざまに手を替えて攻めた。岩倉方は守りきれないと判断して、城を明け渡し、将兵は散り散りに退去した」
岩倉城は五条川に臨む平地の城だったため、山城のように排泄物を投じることができない。溜まりゆく糞尿のダメージも大きかったことだろう。
信長の周到な準備によって、美濃勢からの援軍も得られぬまま、岩倉城は落城。すると、信長はすぐさま岩倉城を破却し、反乱に利用できないようにしてから、清洲へと帰陣している。
尾張統一を目前にした信長は、天下に認めてもらうために、上洛へと動き出すのだった。
急成長する信長に仕えた「豊臣兄弟」
豊臣秀吉はというと、天文19(1550)年に家を飛び出して、松下之綱に一時期は任官するも、うまくいかなかったようだ。天文23(1554)年ごろに織田信長のもとに仕官したと見られている。
それから4年後に浮野の合戦が行われていることを思うと、秀吉はまさに信長が天下に名を轟かせようとしているタイミングで、信長軍に加わったといえよう。後年の秀吉は兵糧攻めを得意としたが、信長の岩倉城攻めから学ぶことも多かったのではないだろうか。
一方、秀吉の弟・秀長は奔放の兄に代わり、農作業に打ち込み、家族を支えていた。秀長が秀吉に口説かれて信長に仕えた時期はよくわかっていないが、おそらく秀吉が足軽組頭になった永禄5(1562)年ごろだとみられている。
桶狭間の戦いで勝利して勢力を拡大していく信長のもとで、豊臣兄弟は合戦で勝利するために、戦局をどう見極めて何をすべきか、という戦略眼を身に付けることとなった。
【参考文献】
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
柴裕之編『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(戎光祥出版)
新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社)
真山知幸著『企業として見た戦国大名』(彩図社)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)
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