「包囲された城には糞尿が溜まり…」 大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目"岩倉城攻め"で見せた信長の意外な慎重さ

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驚くべきことに、信長は奇襲攻撃を仕掛ける前日になっても、家老たちに何ら作戦について伝えず、軍議さえ開かなかったという。夜明け方にいきなり動き出して、出陣を告げたというから、家臣たちもさぞ慌てたに違いない。出陣直前の信長について、『信長公記』では次のように書かれている。

「鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣した」

いかにもスピード感を重視した型破りな信長らしい逸話だが、当時の状況を踏まえると、奇襲攻撃を自軍にもギリギリまで伝えなかった信長の意図がみえてくる。

大軍の今川軍に奇襲をかけると知れば、臆病風に吹かれる者が出てきてもおかしくはない。実際に信長の父・織田信秀の死後、織田方の武将が次々と今川へ離反していた。大胆な作戦を当日にいきなり伝えることで、躊躇する隙を与えなかった。また、奇襲攻撃を相手方に事前に悟られないよう、情報管理のために自軍さえも欺く必要があったのである。

「桶狭間の戦い」での勝因としては、信長の大胆さがどうしても強調されやすい。だが、実は、勝負をかけるにあたって、信長は状況をよく事前に分析していたことがわかる。

岩倉城を包囲して籠城戦を仕掛ける

激情型のようで、いかなるときも冷静だった信長。そんなリーダーとしての資質は、早くから発揮されていたようだ。

父の織田信秀が亡くなると、18歳で家督を継いだ信長は、わずか1年で、尾張下半国の拠点である清洲城のほか、那古野城、守山城を支配下に置く。

尾張統一を果たすには、敵対する最大勢力である伊勢守家を破るのみ。伊勢守家の当主・織田信安は、信長が幼少の頃はともに猿楽を楽しんだ仲だったが、やがて疎遠に。次男・信家を後継にしようとしたことで、美濃の斎藤義龍 と手を組んだ長男の信賢によって、岩倉城から追放されている。

そこで信長は永禄2(1559)年に、信賢の居城・岩倉城に攻め込むことになるが、その前に、相手のバックにいる美濃勢の動きを封じなければならないと、信長は考えた。

岩倉城を攻める状況を整えるべく、犬山城の織田信清を味方にしておいてから、岩倉城の後方にあたる浮野にまわり込み、陣を張った。そして永禄元(1558)年に信賢勢と激突。『信長公記』によると、この浮野合戦で信長軍は相手方の1250もの首をとったという。

そのうえで、信長は岩倉城に火を放って包囲。敵が出られないようにしながら、数カ月にわたって兵糧の補給源を断った。『信長公記』には、次のように記されている。

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