──現在、歌舞伎界を舞台にした映画『国宝』が大ヒットして、いまだ話題冷めやらずといった感じです。この映画の話を玉三郎さんとされましたか?
まだ私は観てないんですよ。玉三郎さんはご覧になったと聞きました。
映画のヒットで広く歌舞伎に興味を持ってもらうのは良いとして、彼にしてみれば「そうじゃない」と思う部分もあったのではないでしょうか。「神は細部に宿る」と言いますからね。
そもそも絶対に「人間国宝」と呼ばれたくない人です。
こんなことも言います。「残そうと思って残るものなんてない。すべて自然に消えていくもの。もし消えないんだったら、それは人の心の中に残るもの。自分がそれを残す努力をしているわけじゃない」
「あなたはいいよね、本を書くから。読者はいつでも読める。私たちはそうじゃない。刹那刹那で演じ、観る人と共感しあって、劇場という空間を出ていったときに、ああいい時間だった、時間を忘れられた、というのが良いもの。玉三郎が何かを伝えようとした、というのを感じてもらう必要はない」と。
ただ、実際に演じている舞台は、だんだんメッセージ性が強くなってきてますが。
魂の共感、共鳴が残っていくことに価値がある
──人は勲章や肩書で名を残したり、後継者をつくって自分の考えややり方を受け継いでほしいと思うものですが、玉三郎さんは自分を「残す」努力をしないと?
「後継者」である必要はない。たとえばバレエ、映画、音楽、染め物、陶芸家、さまざまな人たちと魂の部分で共感できるものがたくさんある。共演したヨーヨー・マ(世界的なチェリスト)の音楽に対する眼差しは私と一緒だった、と。そういう魂の共感、共鳴が残っていくことにこそ価値があるという思いがあるのでしょう。
今回の『風を得て』の後半は、玉三郎イズムそのものです。多分、彼は言葉の世界では私にそれを残しているんだと思います。
――なるほど。玉三郎さん自身では残さないけれど、玉三郎的なるものは世界に存在し続ける、ということなんでしょうかね。ところでお2人は海で夕陽を眺めることがあるそうですね。
彼は自然、特に海が好きですから。1カ月に何回かは海を見ないと落ち着かない。特に海に落ちる夕陽、大好きですね。
まだ陽が沈む前の海に連れていかれて、岸壁に座りながら、陽が落ちるまでずっと。「もういいですよね」と私が腰を浮かせようとすると、「まだでしょ、まだ赤いじゃない」と止められる(笑)。
結局、完全に太陽が水平線に沈んで、闇が訪れるまで、1時間ぐらいずっと2人で。会話があるわけでもない。ただ波の音を聞きながら、同じ景色を見ていました。
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