築80年弱でずっと現役!日本最古の団地が移住者向けの入居募集を開始。まだまだ使える団地のすごさを見てきた
そんな中、いち早く国に働きかけ、建設資材の配給を受けたのは静岡市が2度の大火を経て防火対策の重要性を強く感じていたため。もちろん、戦後の住宅不足の解消、生活水準の向上、市内事業者の育成、新たな生活様式のためのモデル住宅の建設などという意味もあるが、火災への備えという意識は非常に強かった。
静岡市の1度目の大火は40年1月。市内西側にある安倍川からの風に煽られて燃え広がった火は静岡駅や松坂屋静岡店などを焼き尽くし、中心市街地は焼け野原に。静岡県の歴史的公文書によると消失家屋5089戸、うち全焼4991戸、罹災人数2万6000人(概数)という大きな被害を出している。
この大火を受けて静岡市は都市計画を見直し、街中にある寺院を集団移転させ、街区を整備し、道路の拡幅、防火対策として青葉公園の整備などを進めた。
だが、当時の復興住宅は木造で建設されたため、第2次世界大戦中の44年以降20数回に及ぶ空襲で静岡市内は再度焼け野原となった。こうした経験から市は鉄筋コンクリート造の住宅を利用した防火対策を考えるに至った。
防火帯も作って一石二鳥に
その意図が明確にわかるのは団地の配置から。現存する羽衣団地は通り沿いに2棟。その左右、同じ通り沿いには翌年の49年に着工された駒形団地、新通団地が並び、4棟が壁を作るように建っている。
地図で見ると団地の背後、東側には静岡県庁や静岡市役所などの官庁街、商業エリアが集まっている。鉄筋コンクリート造の団地群は防火帯となって西からの火の前に立ちはだかり、中心市街地を守る。そういう配置になっているのである。
同時期には羽衣団地などの壁の先に県営駒形団地2棟、少し離れた場所には住吉町団地、三番町第一団地(50年)、三番町第二団地、四番町団地(51年)が相次いで建てられている。静岡市の戦災復興は防災都市を目指し、耐火建築物の公営住宅の建設から進められたのだ。


















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