【戦艦「大和」復元への道】『ゴジラ』の街並みを作った会社も協力、2000枚もの写真を使って…「十分の一戦艦大和」建造で味わった"生みの苦しみ"
呉市では200枚程度の大和の原図を収集していた。いずれも終戦時の焼却を奇跡的に免れた資料で、何よりも重要なものだ。そして、終戦時に関係者の手によって復元された図面。それに泉氏が提供してくれたおもに同型艦武蔵の資料、坂上氏による百分の一大和模型と貴重なアドバイス。
さらにポーランドの研究家ヤヌス・シコルスキー氏の驚異的作図能力による大和図面集があり、これらと100枚を超える大和・武蔵の写真、海底調査のビデオから出力した2000枚もの写真が重要な資料となった。
まず、どの段階の大和を再現するのかが問題となった。よく知られるように、大和には戦局の変化にともなって、数回にわたる改装が施された。技術面からみると竣工時の姿が妥当だが、歴史を重んじるならば沈没直前の姿を残したい。しかし、沈没直前の大和は、甲板が黒く塗られ、あちこちに増設された機銃のまわりに土囊(どのう)が積まれた状態で、美しいとはいえない。
さまざまに検討した結果、もっとも整備され美しい状態だった昭和20年の春、最後の入渠(にゅうきょ)を終えた状態を再現することになった。
「資料のない部分」をどう作るか
資料一式を持ち帰った田島氏のチームは、ほどなくいくつもの質問を投げてきた。その多くは、構造物の陰になって見えない箇所の形状についてだった。模型を造るからには、絵や図とは違って、もともと資料のない部分についても曖昧なままにはしておけない。しっかりと形状を把握しないかぎり、形ある物は作れないのだ。
私は限られた図面や写真を眺めては、合理的な解決を模索した。実際のところ、まったく資料のない箇所は推定するほかないのだが、その場合も理屈にあった推定でなければならない。兵員がたどり着けないような場所に機銃があるはずがないし、兵員が配置されるあらゆる箇所には、必ず通路がある。


















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