「なんでママは物投げるん?」「知らん、声出すなや」 毒親サバイバーの29歳女性、父母の喧嘩が"日常茶飯事"でも「グレずに大人になれた」深い理由
保育園から兄が帰ってきたら、2人での留守番がはじまる。父は炊飯器をセットして仕事に行っており、冷蔵庫には作り置きのカレーがあった記憶もある。
しかし、未就学児2人だけで炊飯器から米を盛り、カレーを温めて食べるのは困難だった。結局、親が帰ってくるまで飲み食いできず、兄と2人で遊びながらお腹を空かせていた。
グレて非行に走るには、自然環境に恵まれすぎていた
だが、幸いにも筆者は育った環境に恵まれていた。環境というのは、家庭環境ではなく、家を一歩出た先に広がっている自然環境だ。
筆者は、周りは海に囲まれ、島にかかる橋か船でしか本土に行けない正真正銘の「島」で育った。そんな希少な島育ちだったからこそ、キツめのネグレクトを受けた被虐待児でもスレずに真っ直ぐ育つことができたのだ。
8歳のとき、親の離婚により同じ町内で引っ越しをした。それからの筆者の部屋は、カーテンを開ければそこに海があった。波の音を聞きながら眠り、船の汽笛で目覚めるような毎日だった。町の主要産業は牡蠣の養殖で、朝5時から動きはじめる牡蠣殻だけを乗せたベルトコンベアから、実を剥かれた後の牡蠣殻のニオイが常に鼻腔を刺激した。
自然環境が豊かすぎるあまり、グレられなかったのは兄も同じだった、はずだった。
「お兄ちゃん今日学校なん?」
「話しかけんなや。俺は妹おらんことにしとんじゃ」
成長するにつれて、兄の反応はツンケンしたものになっていった。筆者にとって非常に寂しいことだったが、それでも、妹が「ゲーム貸して」と言えば、一度無視しながらも次の日には部屋の前に出しておいてくれるような優しい兄だった。
そんな町で、わたしたちは育った。



















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