「なんでママは物投げるん?」「知らん、声出すなや」 毒親サバイバーの29歳女性、父母の喧嘩が"日常茶飯事"でも「グレずに大人になれた」深い理由
「なんでここに入らんといけんのん?」
「ママが物投げるからじゃ」
「なんでママは物投げるん?」
「知らん、声出すなや」
今思えば、兄はこの状況を正しく理解していたのだろう。母からの危害が自分たちに向かないよう、妹を守りながら息をひそめるのはどれだけつらいことだったのだろうか。何も分からないまま兄に守られるだけだった妹には、想像することもできない。
現代の定義では、子どもの前で夫婦喧嘩を見せるのは虐待に当たる。当時もそうだったのかは分からないが、幼児だった筆者は、壁に当たって蓋が外れ、中身が飛び散ったオロナインを見て、震えることしかできなかった。
地震の揺れで床に落ちて飛び散る食器で怪我をしないよう、テーブルの下で強く抱きしめられていたのび太とドラえもん。親が投げて飛び散る物で怪我をしないよう、テーブルの下で抱き合いながら震えた私たち兄妹。あまりの落差に笑ってしまいそうになる。
あのとき、目の前にもしもボックスがあったなら、「パパとママが喧嘩をしませんように」と願ったことだろう。
のび太の部屋にあるような勉強机を買ってもらってから、筆者と兄は何度も引き出しを覗き込んできた。もしもドラえもんが来てくれるなら、中身を入れていると出られなくなってしまうのではないか。そんな心配をして、一番上の引き出しにはできるだけ物を入れないようにしていたような記憶がある。
結局、テーブルの下でジッと耐えていた筆者と兄が引き出しを覗いても、22世紀からドラえもんはやってこなかったのだが──。
ひとりぼっちの留守番は、毎日お化けとの戦いだった
これが虐待でなければ何なのかという話なのだが、筆者にとって最もつらかったのは、親の喧嘩より、純然たる「ネグレクト」の方だった。もちろん、子どもだった筆者はそれが虐待だとは気づいていなかった。ただ、毎日生き延びることに必死だったからだ。
ひとりぼっちでの留守番は、4歳のときからはじまった。起きたらすでに仕事に行っている両親に、保育園に登園済みの兄。この頃、とりわけ身体が小さかったことは想像に難くないだろう。
4歳児の筆者は自力で飲食できず、空腹やのどの渇きに耐えながらジッと時間がすぎるのを待っていた。ひとりぼっちの部屋は、常に薄暗かったように思う。いつも兄と一緒に遊んでいたため、ひとり遊びは好きではなかった。父に教えられた録画の再生だけはできたので、ひたすら同じ録画を繰り返し見てすごしていた。
カーテンの揺れや影をお化けだと信じていた子どもにとって、孤独さよりも恐怖のほうがつらかった。西日が差し込む頃になると、お化けがやってくるのではないかと怯え、あてもなく家の中を点検して回る。もう少しすれば兄が帰ってきてくれる。そんな希望を信じて、いつも小さな手を握りしめていた。



















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