患者の家族が急死、初めての出産、排泄で失敗…こんなときの「いいケア」とは? 医師や看護師と本気の対話を重ねてたどり着いた"本質"
Aさん「看護師として、患者さんの排泄の失敗にはよく遭遇するんです。その時には、何か声かけをしないといけないとずっと思ってたんですが、ある日、先輩看護師が、『はい、オッケー』とだけさらっと言って、パパパパっと拭いて、患者さんの不快感を取り除いて、パッと去っていくというのを見たんです。
あとで当事者の方が、看護師さんに何でもない普通のこととして流してもらえたことが本当にありがたかったとおっしゃっていたのを聞いて、ああいういいケアというのもあるんだなと気づかされました」
Cさん「私の子どもは、アレルギーがひどくて、ずっと病院に通っていたんです。とても厳しい病院で、毎回、行くたびに私は怒られていました。お母さんがそんなんでどうするですか、そんなんじゃスタート地点にも立てませんよ、と。私はいつも診察室でボロボロ泣いていました。
ある頃から、トラウマみたいになって。でも子どものためには通わないといけないし、と、つらい時期がありました。あれはいいケアの反対だったんじゃないかなと、いまになって思います」
Aさん「私はいつも仕事の合間にコーヒーを飲むんですが、忙しすぎて、そんな暇が全然なかった時期があったんです。そんな時、後輩がそっとコーヒーを淹れて出してくれたことがあって。あれはここ最近で、一番ありがたい、いいケアだった気がします」
ちなみに、このように事例を挙げながら本質観取をしていると、しばしば、「自分が主観的に思ういいケアと、他の人が感じるいいケアって、本当は違っているんじゃない?」 といった指摘が参加者からなされることがあります。自分では「いいケア」だと思ってやっていたことが、他の人から「いいケア」とは思われない、ということがある。だからいいケアって、結局のところ〝人それぞれ〞なんじゃないか、と。
言語化されていない「いいケア」の本質
でもここで、改めて本質観取のエッセンスを思い出していただきたいと思います。
本質観取は、人それぞれを超えて、なおみんなが納得できる本質を見出していく営みでした。たとえば、もし先ほどのAさんの例のように、「お父さんのお葬式で背中をずっとさすってくれた看護師さんの行為は、確かにいいケアと言えるね」という共通了解が得られたとしましょう。
その場合、そこには、まだ言語化されていない「いいケア」の本質が、みんなに直観されているということです。
ではなぜ、私たちはそれを「いいケア」と呼ぶことができるのでしょう? そのまだ言葉にならない本質を、みんなで頭を寄せ合い、自覚的な言葉にしていくのが本質観取なのです。


















