人文学は「今=危機の時代」にこそ必要だ 「内田樹×白井聡」緊急トークイベント<後編>
内田:リスクヘッジという視点からは、世界各地のいろいろな種族、いろいろな言語の文化に対して、俯瞰的なかたちで見ていくことが大切ですね。どれかに優劣をつけたりしないで、等しくいろいろなものを並べ、それに対して幅広く好奇心を向けていく。
実学と人文学は相互に補完的である
内田:何十年というスパンで見ないと、どのような学術情報がいつ、どういうかたちで役に立つかはわからないのです。
畏友の中田考先生というイスラム法学者にしても、トルコの移民問題を研究している内藤正典先生にしても、極めて特殊な研究領域の専門家であったわけですけれど、現在、中東からヨーロッパにかけて起きている出来事を理解するためには、彼らのような方たちの専門知が必須のものであるわけです。
イスラム法学の専門家なんて、日本には何人もいない。そして、イスラム法学がわからないと、ムスリムたちの内的な行動規範や価値判断基準はわからない。それがわからなければ、適切な外交的ソリューションが採択できない。
中東を理解することは国際政治上、極めて緊急性の高い課題ですけれど、そのための学術的な備えということに関して言えば、日本政府はほとんど何もしてこなかった。いざというときに、現地の言葉が話せ、現地に信頼できるカウンターパートがいて、そのネットワークを通じて信頼性の高い情報を手に入れたり、あるいは政治組織に働きかけたりできる人物というのは、必須の存在なわけです。けれども、そのようなまさに「国家須要の人材」の育成のために、日本政府はほとんど何もしてこなかった。
何が起きるかわからないのだから、それに備えてあらゆる手を打っておくというのがリスクヘッジの基本ですけれど、実学的発想をすると、確実なリターンが約束されないところに資源をつぎ込むべきではない。「選択と集中」で、確実に利益が上がる領域にだけ教育研究の資源は投入すべきだということになると、いざ中東やトルコが世界政治の焦点になったときに、手も足も出ないということになる。
国家的支援がない中で、中田先生たちはここまでよくやってきたと思いますよ。かろうじて個人技でなんとか研究をつないでいる。そういう個人の身銭を切るような努力によって、かろうじて学統を保っている分野がたくさんある。フランス文化だってそうですよ。今、フランスの小説を訳している人なんて、野崎歓さんぐらいしかいない。英米文学だってそうです。日本中が英語英語と大騒ぎしていているから、英語ができる人は100万人単位でいるはずなのだけれど、じゃあ米国現代文学を誰が翻訳しているのかといったら、柴田元幸さんとあとは……指折り数えられるくらいしかいない。
白井:同感ですね。長年にわたって国家的支援が薄い中で、日本の人文学者たちは実に粘り強くやってきたと思います。そうやってかろうじてつないできたものすらも、存続の危機に立ち至っているというのが現状ではないのでしょうか。
どうやって反転攻勢をかけるのか。人文学の側が自分たちの存在意義を社会に対してしっかり説明することに失敗してきたという側面もあると思うのです。だから、たとえば大学のグローバル化を進めなきゃならんと言われると、日本人学生相手に英語で授業をやって、外国人教授を招聘し、という植民地根性丸出しの発想しか出てこない。逆に、われわれの側で蓄積してきた人文学的な知を国際的に発信する方法や制度を作り上げようという発想がない。むしろ、これまで払われてきた努力の成果を系統的に破壊しようという意図が見えます。
はっきり言えば、集団的にバカになろうという意図が働いているというふうにすら思えます。ここに、今、話題になっている反知性主義が現れているのでしょう。反知性主義は、安倍政権の専売特許ではなくて、昔からある統治の原理のひとつです。権力の側からすると、人間をバカにしておいたほうが支配しやすい。だから、人文学的なものに対する憎悪が権力の側にはつねにあるのですが、それが今、むき出しになってきています。人文学は、あらゆる方向から知性を鍛えることを目指すわけですから。
内田:そういうこともあるかもしれませんね。僕は、長いスパンでみたら、実学的な学問と非実学的な人文学というのは、お互いに交代して輝くものだという気がしているのです。安定期に役立つ実学と、地殻変動期や移行期に役立つ人文学は、お互いに補完し合うものであって、お互いを排除する必要はないと思うのです。扱っているスパンが違うのだから、話が合わないのは仕方がない。その中で、それぞれの有用性を認め合っていくのがいいのではないかと思います。
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