人文学は「今=危機の時代」にこそ必要だ 「内田樹×白井聡」緊急トークイベント<後編>

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内田 樹(うちだ たつる)/1950年生まれ。思想家、武道家、京都精華大学人文学部客員教授。近著に『日本の反知性主義』(編著、晶文社)、『街場の戦争論』(ミシマ社)、『困難な成熟』(夜間飛行)などがある。

内田:枠組みが安定していて、法則に従って物事が起きていくシステムでは、出力と入力の間に予測可能な相関関係がある。その相関を前提にして、「より効率よく成果を出すためにはどうしたらいいのか」という研究をするのが実学で、平時に役に立つ学問です。

一方で人文学は、たぶん平時にはあまり役に立たない。しかし遠い視点から、500年、1000年というスパンで物事を考えるということを「実学」者はしません。

でも、それくらいの時間幅で見ると、社会が足元から崩れていくような地殻変動的な事件は必ず起きる。いつ、どういうかたちで起きるかは予測できないし、法則性も読めないけれど、必ず起きる。システムそのものが機能不全になったときに、「安定的なシステムの中で最も効率よく利益を出すための学問」は、何の役にも立ちません。

でも、そういうカタストロフをも人間は生き延びなければならないし、現に生き延びてきた。であれば、「どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる」知性の使い方があるはずです。僕は人文知というのは、そのような「非常時に働く知性」のことだと思っています。

多様性を重視する人文学

内田:人文学の領域では、何よりも多様性が重視されます。多様性が担保されているほうが研究の生産性が上がるというのが理由のひとつですが、もうひとつ、もっと大きな理由があります。それは、多様性が社会にとってのリスクヘッジになるということです。100年に1度、500年に1度来るかもしれない危機を頭に置いて、「どういう専門知や職能がいつ必要になるかわからないから、とりあえず人間にできることはなんでも学習しよう」という開放的な姿勢が人文知だと思います。

先日、エマニュエル・トッドの『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』 (文春新書)という本を読んだのですが、トッドによると、米国の凋落の後はドイツが世界の覇権を握るらしい。トッドの予測の適否はとりあえず脇に置いても、仮にそうなったときに、日本の学術はそのパラダイムシフトに対応できるのか。対応できないでしょう。だって、今の日本の大学にはもう、ドイツ研究をする場がほとんどないからです。

ドイツの政治、ドイツの経済、ドイツの歴史、ドイツの宗教、つまりドイツ人が何を考え、何を感じているのか、世界をどうとらえているのか、内的な行動規範は何かということを知るための学術領域が、日本の大学には細々としか存在していない。

そもそもドイツ語の読み書きができる学生を積極的に育てていない。英語だけやっていればいいというのは、米国が世界の覇権を握っている間は合理的な判断ですけれど、「英語以外の言語が覇権国家の言語になる」という、極めて蓋然性の高い未来に対する備えをまったくしていないという点では、極めて愚かしい判断だと言わなければならない。ドイツ語が世界標準語になったときというような状況のために、「実学者」は想像力を使わない。僕が「実学」とは「平時の学問」だというのは、そのような意味においてです。

白井:「ほら見たことか」という感じですよね。私もヨーロッパを旅行したとき、多様な文化を研究し続けることの重要性を直感しました。ここ20年ほどの傾向だと思いますが、日本では「英語が大事だ」ということばかり言われる一方、ドイツ語は明らかに大学で人気が落ちて、スタッフも少なくなっています。でもヨーロッパでのドイツ語のプレゼンスというのは、日本で思われているよりはるかに大きい。ドイツに旅行に行ってみて、東欧の人たちがドイツ語を勉強して、ドイツに仕事に来ているケースが非常に多いということが、皮膚感覚でわかりました。それなのに、日本ではこぞって「ドイツ語なんかもうどうでもいい」となっている。

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