『停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。』
いわずと知れた、夏目漱石『坊っちゃん』の一節である。漱石は1895年、主人公と同じように愛媛県は松山の中学校へ赴任している。このとき漱石は港から町まで、実際に“マッチ箱のような汽車”に乗ったのだ。
四国で初めて鉄道が走った
漱石が松山に赴任した年、松山……どころか愛媛を走っていた鉄道はこの“マッチ箱のような汽車”しかなかった。というより、四国そのものがまだまだ鉄道の便に恵まれておらず、ほかには1889年開業の丸亀―琴平間(現在のJR予讃線・土讃線の一部)があるだけだった。同年、本州では東海道本線の新橋―神戸間が全通していたというのに。
そんな“鉄道後進地”だった四国にあって、初めての鉄道が松山の城下町と三津浜の港町を結んだ“マッチ箱”。1888年、伊予鉄道によって松山(現・松山市)―三津間が開業している。現存する私鉄としては南海電気鉄道(1885年創業)に次いで日本で2番目に古い歴史を持つことになる。



















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