高倉健の「鉄道映画」は、不朽の名作ばかりだ 一周忌に振り返る「あの映画のあの名場面」
高倉健(小田剛一)さんは1931年に福岡県中間市で誕生した。中間市で少年時代を過ごし、高校時代には中間駅から折尾の高校まで汽車で通学をしていたという。
健さんが乗り降りした折尾駅は鹿児島本線と筑豊本線が立体交差する大正時代からの古い駅舎だったが、今は新駅舎に改築中で健さんが通っていた当時の面影は望めるべくもない。だが、駅前の堀川運河沿いの通学路や中間駅の戦前からの古い跨線橋には健さんの足跡を見ることができる。
健さん(本名・剛一)の父親は元軍人で「宝珠山炭鉱」の幹部として単身赴任をしていた。父親に可愛がられていた剛一少年は、小・中学生の冬・夏休みには父を頼って宝珠山まで何度も鉄道で訪ねている。回顧録によると「中間から直通の山家駅(現・筑前山家駅)まで兄とともに行き、途中には蒸気機関車が煙を吐いて走っていた」と回顧している。
少年時代の思い出残る「心の駅」
現在は宝珠山炭鉱跡がある山村文化交流の郷「いぶき館」へは日田彦山線大行司駅が近いが、健さんの少年時代は筑豊、鹿児島、日田線を大きく迂回して宝珠山駅に向かったようだ。ここで健さんと父親は原鶴温泉へ出かけ、楽しいひとときを過ごしたという。
現在、宝珠山炭鉱跡の「いぶき館」では高倉健の記念展が開催されている(期限はない)。同炭鉱には健さんと父親の資料が多く残っていて、それを一同に展示している。それら資料をざっと見るだけでも3時間、熱心な人は半日もかけて見るという。
私も後ろ髪を引かれる思いで宝珠山駅への帰路に向かった。宝珠山駅は当時のままの駅舎を残す無人駅になっていたが、ホームには福岡・大分県境ラインが敷かれた珍しい駅として鉄道マニアに人気がある。
「健さんにとって心の駅は?」と聞くと多分、それはこの「宝珠山駅」と応えてくれるに違いないと思った。健さんの鉄道とのかかわり合いを映画でしのび、健さんを慕う旅路はこれからも続く。
(取材資料協力・山村文化交流の郷「いぶき館」)
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