何とかしたい具合の悪い頭の使い方--『学ぶとはどういうことか』を書いた佐々木毅氏(学習院大学法学部教授)に聞く
政策という舞台になると、いつまで経っても結論が出ないでは済まされない。どう扱うかを決めないといけない局面が日々迫ってくる。ここまでは科学的に言い、それ以上は一個人の印象として言うのかといった、結構ややこしい問題が付きまとう。社会科学者には初めからお呼びがかからないが、科学の真実解明力に対して社会に過剰な期待感がある。また、一つがわかると全部そうだとも思いたがる。それだけ、科学者が態度をあいまいにしておくと、どちらかの方向へ引きずり込まれていく可能性をつねに持っている。
──そこでの判断はどうするのですか。
限定的な発言をする人ばかりを集めても答えは出てこない。どういうふうに問題を立てるのか、解決の手順をどう考えるかまで踏み込み、“専門知”以外の知との総合的な解の追求が必要だ。
そこでは問題全体をデザイン設計する科学の役割が出てくるが、それは単発の専門知の延長線では出てこない。それは、ある種の知的能力であり、技芸とかアートとか、見立てをする能力ともいえるかもしれない。この本で最後にパスカルの幾何学の精神を引用したが、その論理的考え方に学べる。また、「繊細の精神」といった、ぱっと全体を感じ取る能力も該当しよう。それも、どの文脈とタイミングを選ぶかが、重要なファクターになる。
社会科学のたとえでいえば、政治学と経済学が互いに好きなことをやっている分には構わない。だが、政治と経済が勝手に無関心であるのは許せることではない。学問は対象のある部分を切り取ってきて、人工的に操作をして、これは法則だ、因果関係だと確定する作業だから、ある意味ではそれだけのものだ。だから、それだけでわかったと言われるのでは話がおかしくなるのは当然ではないだろうか。