NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目…弟・羽柴秀長が「秀吉の後継者」と目されるまでの"道程"をたどる

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なお、病気から快復した秀吉は、7月3日に大坂城を出陣する予定だったが、木津城の攻略寸前だった秀長は、秀吉が出陣すると秀長の力量不足ということになり、「当座の恥辱」をうけることになるので、出陣を延期してほしいと要請する書状を送っている。

この秀長の思いを受け止めてか、秀吉は出陣を7月10日に延期し、のちに出陣そのものを中止している。

秀長が長宗我部元親の取次を務める

秀長・秀次軍は木津城の攻略後、牛岐(うしき)城を調略。さらに秀長軍は一宮城を、秀次軍は別行動をとって脇(わき)城を攻撃したが、両城には長宗我部家の一族や重臣が在城していて根強い抵抗を受けている。

そして7月中旬より和睦交渉が行われ、8月に長宗我部元親が降伏し、当初の条件どおり、元親は土佐一国のみの領有を許されることで四国は平定された。

その後、元親に許された「土佐一国」以外の三国については、阿波は蜂須賀家政(正勝の子)、讃岐は仙石久秀、伊予は小早川隆景が封じられた。また、淡路は脇坂安治と加藤嘉明に与えられている。

同年10月、元親は秀吉のもとへ出仕し、秀吉への従属が確定した。その際、秀長は元親に同行して取次を行っている。秀長はこののち、諸国の大名家が秀吉に従属するにあたって、それらへの取次を務めることになるが、これがその最初の事例である。

ところで、この四国征伐のさなかの7月11日、秀吉は従一位・関白に叙任されている。

ちょうどこの頃、この年始めに秀吉が左大臣への任官を望んだことで、関白職をめぐって摂関家の近衛信輔(のちの信尹)と二条昭実が争い、両者とも譲らなかった。

そこで秀吉は、摂関職は藤原五摂家でないと就任できないため摂関家筆頭の近衛前久を説得してその猶子(ゆうし)となり、平姓から藤原姓に改姓して関白の地位を手に入れたのである。

ただし秀吉は、藤氏長者(とうしのちょうじゃ/藤原氏一族全体の氏長者)の統制下に置かれることをよしとせず、正親町天皇に豊臣姓への改姓を申請し、これが認められている。ここに豊臣という新たな姓が創出され、秀吉はその氏長者(うじのちょうじゃ)となった。

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