NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目…弟・羽柴秀長が「秀吉の後継者」と目されるまでの"道程"をたどる
秀吉は同日のうちに根来寺方への攻撃を開始し、2日後の23日に放火、さらに翌24日には雑賀衆が籠もる紀伊太田城を攻撃した。その一方で、秀吉は仙石秀久、中村一氏、小西行長らの直臣を紀伊南部に進攻させ、秀吉に抵抗する畠山貞政の拠点・鳥屋城や湯川直春の湯川館を攻略している。
さらに秀吉は、同年4月16日に高野山を服属させ、22日には太田城を水攻めで攻略して紀伊を平定。これにより秀吉は、紀伊・和泉のほぼ全域を攻略した。
この和泉・紀伊平定をうけて、秀長は秀吉から紀伊・和泉二ヶ国を領国として与えられている。それまで領国であった播磨三郡・但馬からの転封という形であったが、これにより石高はほぼ倍増した。
ただし、このときも播磨同様に、紀伊・和泉すべてを所領としたわけではなく、両国内にある秀吉直臣たちの所領以外についてのみ、支配権を認められていたようだ。
秀長が総大将を務めた四国征伐
紀州征伐に続いて、秀吉は四国の長宗我部元親の征伐に乗り出す。なお、この四国征伐は当初、秀吉の出陣が予定されていたが、病を患ったことで秀長が総大将を務めることになった。
ちなみに、四国征伐に先んじて長宗我部元親は、秀吉に対して、阿波・讃岐両国を差し出し、土佐・伊予二ヶ国の安堵を求めるという条件で和議を願い出ていた。
しかし、秀吉は毛利一族の小早川隆景に伊予一国を与える約束をしていたため、元親には土佐一国しか領有を認めないとし、四国征伐はそれに従わせるための出兵だった。
天正13年6月16日、秀長は四国攻めの先陣として和歌山城を出陣した。
なお、羽柴軍の陣容は、秀長を大将にした軍勢が和泉から淡路洲本(洲本市)に進軍し、羽柴秀次を大将にした軍勢が播磨明石(明石市)から淡路岩屋(淡路市)に進軍、宇喜多秀家と蜂須賀正勝、黒田孝高らの軍勢が備前から讃岐に進軍し、毛利家の軍勢が安芸から伊予に進軍するという大規模なものだった。
秀長は淡路福良(ふくら/南あわじ市)で秀次軍と合流して阿波の土佐泊(とさどまり)に上陸し、そこで宇喜多軍と合流した。そして秀長・秀次軍はすぐに木津城を攻撃し、7月5日に同城を攻略した。


















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