「子どもを産みたい、医師にもなりたい」結婚・出産・子育てしながら7浪で医学部合格→53歳で医師になった彼女の"学びなおし"の人生

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新開さんは島根県の松江市に生まれ、18歳までそこで育ちました。

小さい頃の新開さんは、母親が自営業だったので忙しく、祖母に子守りをしてもらい育ちました。

「両親が不和であったことから、幼少期から自分の居場所がないと感じていました。家庭の不和は高校まで続いて、将来のことなどとても考えられませんでした」

母親は結婚まで看護師をしていましたが、経営者の父と結婚してからは一緒に高級クラブ、薬局を経営するようになったそうです。

彼女は、「人を救いたい」という気持ちを小さい頃からずっと持っていました。

「子どもの頃、金魚を夜店で買ったのですが、病気になってしまい、自分では助けられませんでした。それは小さかった自分としてはものすごくショックなことでした。それから小さな動物や、いろいろなものを自分が助けなければいけないという気持ちがあって、小学校の頃からボランティアなどをやっていました。医療をしたいという気持ちはあったものの、肝心の学業はできませんでした」

小中学校のときは島根大学教育学部附属小学校・中学校(現・附属義務教育学校)に在学していた新開さんは、クラスでの成績がほぼ最下位の状態がずっと続いたことで「自分は勉強ができない」という刷り込みが生まれてしまったそうです。

地元・島根を出て“救われた”短大時代

松江市立女子高等学校(現:松江市立皆美が丘女子高等学校)に進学した新開さんは、自身が家庭のことですごく悩んだ経験から心理学を学んでカウンセラーになろうと思い、同志社大学の心理学部を第1志望として受験するも、「惨敗に終わった」と語ります。

現役の受験では希望した心理系の学部には合格できず、合格した短期大学の中から東京女学館短期大学の国際文化学科を選び進学しました。

「このときは再受験したいとは思っていませんでした。17歳で両親が離婚してからも家庭環境が悪くて、早く島根を出たいという気持ちが強かったので、東京で一人暮らしを始められたことに救われました。当時はとにかく目の前の生活をしっかりして、英語を身につけることに集中していました」

卒業してからはアパレルメーカーのレナウン株式会社に入り、2年半海外事業部で勤務した新開さん。その後は日本航空へ転職し、2年間羽田空港でグランドスタッフを経験するなど充実した社会人生活を送っていました。

ですが、それでも彼女の中では葛藤の連続であったそうです。

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