人材輩出の梁山泊だった「日刊まにら新聞」の無念/経営難から詐欺の道具に使われ紙面休刊/天皇も読んだ異色の邦字紙に捧ぐレクイエム
そんな折、後継のオーナーに買収を持ち掛けたのが須見容疑者らだった。2020年経営権を握ったが、もとより新聞やジャーナリズムに対する知見もなければ思い入れもなかった。経費削減を理由に共同通信OBの編集長と朝日新聞OBのデスクを解雇し、取材や執筆の経験のない社員を編集長に据えた。

一方で古びたビルにあった事務所を中心部のしゃれたビルに移し、 S Divisionの派手なネオンサインを掲げた。日本から投資家を連れてきて、ビルの会議室でたびたび「投資セミナー」を開いていた。いわば詐欺の現場である。
須見容疑者は、まにら新聞をSDH社のグループ企業と紹介し、「コンテンツは非常に高品質であり、時事問題やトレンドなど最新の情報を提供する」として30年にわたり地道に新聞を発行してきたまにら新聞の看板を、投資家の信頼を得る、いや騙すために使った。
赤字が続く紙媒体の発行を2度にわたって取りやめたものの、2024年9月に復活させ、日本大使らを招いて再発刊のパーティーを催した。勧誘の小道具として紙媒体が有用だと考え直したようだ。
編集部門はもとより、広告や販売の営業に関して新機軸を打ち出すわけでもなく、新聞事業の再生をめざした買収とはとてもいえなかった。
和食店で即決した題字の変更
筆者が野口さんに初めて会ったのは新聞社の特派員としてマニラに赴任した1994年4月のことだ。「柴田さん、一課担だよね」。これが最初の挨拶だった。野口さんは共同通信の記者時代、大阪府警と警視庁で殺人や強盗、誘拐などの強行犯を扱う刑事部捜査一課を担当していた。所謂、事件記者である。
筆者もかつて大阪府警の捜査一課などを担当していた。新聞社の特派員には語学が堪能で国際関係を専門にするスマートなタイプが多いなか、大阪の社会部で事件取材ばかりをやらされていた泥臭い私に親近感を抱いてくれたようだった。私たちは週に2〜3度と食事をともにして情報交換をした。
1995年10月のある晩、マカティ市内の和食屋のカウンターで、野口さんは「いつまでもKyodo Newsでもないので、そろそろ題字を変えたいと思っているんだけど、何かいい名前ない?」と話を振ってきた。筆者はとっさの思いつきで「マニラ新聞でどう」と答えると「それ、いいね」と即決した。
日本がフィリピンを占領していた1942〜1945年まで「マニラ新聞」が現地で発刊されていたので、題字にはひらがなを採用することになった。
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