人材輩出の梁山泊だった「日刊まにら新聞」の無念/経営難から詐欺の道具に使われ紙面休刊/天皇も読んだ異色の邦字紙に捧ぐレクイエム

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ジャーナリスト志望の日本の若者たちの多くが、まにら新聞の門をたたいた。数年間経験を積み、取材力を磨いたあとに日本の全国紙や通信社、ウェブニュースに転身した記者の数は優に2桁を超す。

ノンフィクションライターの水谷竹秀さんは、まにら新聞勤務時代の取材を基に記した『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で開高健ノンフィクション賞を受賞した。共同通信OBらが交代でデスクを務め、ジャーナリストを鍛える梁山泊の様相を示した時期もあった。野口さんは若手記者らのタニマチだった。

天皇が指摘した紙面の間違い

こんなこともあった。2016年1月、当時の天皇(現上皇)夫妻が訪比した際、マニラ首都圏近郊ロスバニョス市にある国際稲研究所(IRRI)を訪問した。このとき、まにら新聞は、IRRIの初代理事で昭和天皇と親交のあった故木原均・京大名誉教授との縁で訪問が実現したのではないかと報じていたが、これについて天皇は帰り際に「あの記事は違います。稲研究所について聞いたのはインドの方からです」と当時の日本大使館幹部に話したという。天皇が滞在したホテルには、まにら新聞が届けられており、記事を読んでいたのだ。

筆者は大使館幹部が野口さんにその話を打ち明けた場に同席していた。「訂正を出しましょう」という野口さんに、幹部は「それはまずい。内緒の話ですよ」と遮ったが、もう10年も前だ。時効であろう。

まにら新聞は宅配体制を整え、一時は社員を50人以上抱えていたが、経営は一貫して苦しかった。編集部門の働きに比べて営業体制が弱く、広告も後発のフリーペーパーに取られて売り上げへの貢献は少なかった。邦字紙といえども、新聞業界全体の収益を奪ったインターネットの荒波から逃れることもできなかった。

野口さんがポケットマネーで補填を続けたが、それも限界に達した2016年、社長を退き、マニラ在住の知人に借金ともども経営権を譲った。その後ネット配信にも力を入れて挽回を図ったものの、毎月の赤字が積もり、経営は上向かなかった。

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