戦後、【立派な戒名】が庶民に広まった背景には、「死してなおスター」の"まばゆい存在感"があった

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また、武士であるからといって自動的に居士の戒名が付くわけでもなかった。たとえば東京都港区にある泉岳寺は、いわゆる忠臣蔵の赤穂浪士たちの墓所がある寺として知られている。

主君・浅野内匠頭のために仇敵・吉良上野介と戦った彼らの墓が境内にずらりと並び、その墓石には赤穂浪士たちの戒名が刻まれているのだが、トップの大石内蔵助に「忠誠院刃空浄剱居士」という居士の戒名が付いているだけで、あとは全員「信士」なのだ(たとえば大石内蔵助の息子である大石主税は「刃上樹剱信士」、赤穂浪士随一の剣客・堀部安兵衛は「刃雲輝剱信士」)。

宗教学者・島田裕巳はその著書『葬式は、要らない』の中で、戦前の日本人の死者は、多いときでも2割くらいしか居士の戒名を持っていなかったが、これが平成に入ると6割もの人が居士の戒名を得ていると語っている。

先に述べた、筆者の若くして亡くなった友人・知人たちは、全員が"ごく普通のサラリーマン"としか呼びようのない人たちだった。しかし、彼らは院号のついた居士の戒名を付けられていた。

戦後の日本とは、急速にそういう"戒名のインフレ"のようなことが起こった社会だったのである。

「立派な戒名」が可視化された時代

理由は簡単だ。高度成長やバブル景気などによって、戦後の日本人はかつてなく豊かになり、葬儀の際に支出できるお金の額も増えたからだ。そしてそれは同時に、「社会の上流階級でなければ、居士の院号をもらうのはおかしい」といった前近代的な価値観が、ばらばらと崩れていく過程ともリンクしていた。

またそれと同時に、ある興味深い流れが起きた。

戦後日本が生んだスター俳優・石原裕次郎は1987年に世を去ったが、その戒名は「陽光院天真寛裕大居士」というものだった。"大居士"とは居士の上にあるランクの戒名で、江戸時代ならば大名などにしか付かないものだった。

また、同じく戦後の大スター、歌手の美空ひばりが死去したのは1989年のことだったが、彼女の戒名は「慈唱院美空日和清大姉」といった。これも大姉という、立派な戒名だ。

そしてあえて言うが、たとえば江戸時代などにおいて石原や美空のような人物、すなわち役者などをしていた階級の人間が、居士の戒名を付けることができたかというと、そう簡単ではなかったのではないか。

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